「角福戦争」“第2ラウンド”。

 「三木おろし」では手を組んだ「角福」だったが、三木武夫の後継として首相のイスにすわった福田赳夫が、「2年後に大平正芳に“禅譲”」との約束を反故にしたことにより、大平は田中角栄と連合を組み、総裁選での勝負に出た。結果、当初の「福田有利」の下馬評をくつがえしての逆転勝利で大平が政権に就いた。このときの総裁選で田中は、これ以上、福田政権が続くことは、ロッキード事件での逮捕もあり、自ら汚辱を晴らしての「復権」を目指すためには好ましくないと、全精力を傾注して大平勝利に邁進したものだった。

 このときから、さかのぼること4年前の「角福総裁選」で、強力な支援体制を取った田中派の「秘書軍団」も再び総動員され、大平1位に尽力したのである。その際の「秘書軍団」の“火の玉”ぶりを示すエピソードが残っている。

 「私は自分が住んでいることから、練馬区担当になった。ところが、練馬区というのは意外と広い。地図を見ながら一軒一軒あいさつに回るのだが、いざ訪ねると田んぼの真ん中だったりして、一軒回るのに1時間以上費やしたのはザラだった。電話での依頼は福田陣営などもやっていたが、実際にこうして足を運んでお願いしたのはわれわれだけのようだった。『わざわざ現職の国会議員の秘書が訪ねてくれた』と、大平支持にクラ替えしてくれた党員もずいぶん多かった」(羽田孜秘書・山崎貴示)

 「予備選挙の運動期間中、靴を3足はきつぶした秘書もいた。なかには、『福田や中曽根を支持する党員の家には入り込むつもりでやれ』という檄に乗って、ホントに中曽根さんの家まで行ってしまった“森の石松”みたいな秘書もいたのです」(当時を取材した政治部記者)

 結果、この予備選挙では、他に中曽根康弘、河本敏夫も立候補したものの、事実上、大平・福田の一騎打ちとなり、大平が東京など大都市で票を伸ばして1位で勝ち上がった。

 戦前予想では「有利」だっただけに福田陣営のショックは大きかったが、福田自身は恬淡とした性格から敗北の弁をこう述べたものである。

 「天の声にも変な声もある。敗軍の将、兵を語らずだな」

 田中がバックの大平はこの「逆転勝利」で自信を持ったか、政権発足の翌昭和54年(1979年)9月、福田派ら反主流派の反対を押し切って衆院解散に打って出た。

 しかし、選挙期間中に大平自身が「一般消費税導入」を口にしたことから国民の反発を招き、自民党はギリギリ過半数を確保するのが精いっぱいの結果となったのだった。

★“ねばり腰”を見せる福田

 さあ、収まらないのが福田派など反主流派だった。

 「言ったこっちゃない。われわれの反対を押し切って解散するから、こんなことになる。責任はすべて大平にある。退陣すべき」

 こうした声の背景には、なお影響力を落とさぬ「闇将軍」田中への反発があったことは言うまでもなかった。しかし、田中の全力投球、全面支援を受けて総裁となった大平は、ハイそうですかと降りるわけにはいかない。少なくとも過半数は維持した以上、責任はない、とこれを拒否した。一方の反主流派の“辞めろコール”も、高まるばかりであった。自民党としては、総選挙後の特別国会で、新総裁の首相としての首班指名を受けなければならない。

 しかし、反主流派は大平の首班指名には納得しない。議員支持数で優る大平・田中陣営は「それなら両院議員総会で首相候補を決めようじゃないか」と主張、対して、反主流派は“数”の決着では勝ち目なしとこれを拒否し、「自民党をよくする会」を結成、まったく相容れる余地はなかったのである。「よくする会」は、大平・田中陣営が両院議員総会を強行することを警戒、会場となる党本部8階のホールを椅子でバリケードをつくって封鎖してしまうなどもあったのだった。