「相談に乗っていただけますか?」弱みを見せたフリして近づいてくる女の、暴走が始まる時
深窓の令嬢が、超リッチな男と結婚。
それは社会の上澄みと呼ばれる彼らの、ありふれた結婚物語。
有馬紅子(ありま・べにこ)もそんな物語の一人として17年間幸せに暮らしてきた。
しかし突然、夫・貴秋が若い女と駆け落ち同然で家を出てしまい、紅子のプライドは消えかける。
しかし就職に成功し、新たな一歩を踏み出した紅子。始めての売り上げを上げその手段が、周囲のスタッフを魅了していく。そんなある日、紅子は、久しぶりに月城家に呼ばれることになったが、そこで手紙の謎が明かされ、夫の貴秋が送り主に気がつき、その主を呼び出し問い詰める。一方の紅子は、上司から突然告白されて…。
「…好意?それは…恋い慕う…つまり恋慕の情、ということでしょうか?そして今、私の返事をお待ちになっている、という解釈でよろしいのでしょうか?」
会社に戻る車内。僕が発した衝動的な告白の後、しばらく黙って考えていた有馬さんが発した真っ直ぐすぎる質問に、僕はなぜ今言ってしまったのかと後悔した。だがもう遅い。
つまり、今まで僕が示してきたはずだった好意が、少しも伝わっていなかったという事がよく分かる上に、今が仕事中であるということを知らしめるような、冷静な声色。
「…そう、で、すね」
途切れ途切れになってしまった僕の肯定に、有馬さんが、そうですか、と呟いた。そして何かを考えるように俯き、少しの沈黙が流れた。
ラジオから流れてくる交通渋滞を伝える音声が、やたらと大きく車内に響いている気がしたり、タクシーの運転手がこちらの会話に聞き耳を立てているような気分になってしまうのは、僕に後ろめたさがあるからだろう。
「…あの、有馬さん、返事は今じゃなくても…仕事中でしたね…あの、何か、すいませんでし、た」
急に恥ずかしくなった僕は、有馬さんの視線から逃げるように、顔をそらした。冷静さが売りのはずの自分が、なぜこんなに衝動的になってしまったのか。
タクシーの窓の外の景色を見ている有馬さんの横顔が、あまりにも清く凛と見えて、グッときたから…などと、中学生男子の言い訳だったとしても恥ずかしいレベルだ。
「坂巻さん…私は」
年下の男の突然の告白に紅子は…そしてその時、夫・貴秋が!
有馬さんの声に引っ張られるように僕が視線を戻すと、それを待っていたかのように、有馬さんが続けた。
「どこまで坂巻さんがご存知なのかわかりませんが、私はまだ、正式には離婚が成立しておりません。それに」
真っ直ぐな瞳に戸惑う僕とは違って、落ち着き払った声、そしてまるで子供をさとすような優しい口調で、有馬さんは言葉を続けていく。
「坂巻さんに、上司としての尊敬の念以上の気持ちは抱いておりませんし、これからも抱く予定はございません。私は、恋情というものには不慣れで、このようなお返事の仕方しか…できないことをお許しいただけますか」
―これからも…。
これ以上にない、瞬殺の拒絶。こんな振られ方をしたのは初めてだったが、妙に清々しい。こんな時にも毅然としている有馬さんに、僕は思わず笑いだしてしまった。
「坂巻さん?」
何かおかしなことを言ってしまったでしょうか、と尋ねてくる有馬さんに、いえ、と笑いをこらえきれないまま僕が言った時、有馬さんの携帯が鳴った。
僕の方を伺う仕草に、どうぞ、と促すと、有馬さんがバッグの中で振動を続けていた携帯を取り出す。どうやらプライベートの携帯だったようで、画面を確認した彼女が、またバッグに戻す。
「出なくていいんですか?」
僕が聞くと有馬さんは短く、はい、と答えた。けれど携帯はしばらく鳴り続け、切れたかと思うと、また鳴りはじめる。それが何度か繰り返された時、僕は言った。
「どうぞ、出てください」
僕の言葉に有馬さんが、でも私用の携帯ですし、と困った顔で答える。
「でも、それだけ鳴り続けるなんて急用かもしれませんよ。それに、仕事中に恋愛感情を告白した公私混同の上司に比べれば、今、プライベートの携帯に出るくらい、可愛いものです」
有馬さんの負担にならぬよう、自虐要素を強めた言葉が自分に刺さる。それでも有馬さんは遠慮気味だったけれど、次に携帯が鳴り始めると、僕の視線に促されるように、申し訳ないという表情で電話に出た。
「…貴秋さん?何かありましたか?」
―男、か。
なるべく聞き耳を立てないよう、窓の外を眺めるふりをしているのに、有馬さんのシリアスな口調がつい気になってしまう。
「…今夜?今夜は、特に…。今は会社に戻っていますが…随分急なのね。ええ、分かりました、では終わったらご連絡します」
―今夜…食事の約束かな。
邪推をしてしまう僕には当然気づくこともなく、有馬さんは電話を切り、僕に、失礼致しましたと言った。
「…大丈夫ですか?」
そう聞くと笑顔で、はい、と答えてくれたが、その後会社に着くまで沈黙が続いた。途中、盗み見たその横顔は、どこか上の空で、それが僕はずっと気になっていた。
貴秋のことが気になる紅子の元に…涼子が再び。そして坂巻も!
ー急に、どうしたのかしら。
貴秋さんが、どうしても会って話したいことがある、なんて言うなんて。それに彼からの電話なんて、いつぶりだろうか。
会社に戻って簡単な打ち合わせを終わらせると、帰宅準備をしながら、貴秋さんの珍しく真面目な声を思い出す。普段から能天気を演じている彼にしては珍しい。
会社を出たら電話しよう。そう思いながらエレベーターに乗り、会社を出た。
―風が強い。
ビルを吹き抜ける秋風が随分冷たくなった。私はトレンチコートのボタンを上まで留め、もうすっかり体が覚えた、自宅への道を歩き始めた。
会社から少し離れてから貴秋さんに電話をかけよう。そう思いながら街灯の少ない路地裏の道に入った時、バッグの中の携帯が振動した。
―貴秋さんかしら。
そう思って、ろくに画面も確認せずに電話に出た。
「貴秋さん?」
電話の向こうにそう言ったけれど、返事がない。もう一度、貴秋さん?と言うと、小さく、女性の声が聞こえた。
「…紅子さま、涼子です」
「涼子さん!」
思わず大きな声をあげてしまった。
周囲の視線を集めてしまったことに気がつき、私は小さく頭を下げ、声のボリュームを下げた。
「涼子さん、良かった、声が聞けて。退社なさるって聞いて、何かあったのかと心配していたところでした。お電話しようと思っていたのよ」
歩きながら電話で話すことが苦手な私は、そう言うと歩道の端に立ち止まり、涼子さんの反応を待つ。
「最後にお会いしたとき、酷いことを言ってしまったことを謝りたくてお電話しました。紅子さまはいつもお優しいのですね。私などのことを心配してくださるなんて…」
「私などの、なんて仰らないで。どうして急に退社なんて…」
私の言葉に涼子さんは、紅子さまにお話しするようなことではないと思っていたのですが、と言った後、続けた。
「もしよろしければ、相談に乗っていただけますか?話せる人がいなくて…私もう、どうしたらいいのか…」
涼子さんの声が涙声に変わった気配がして、私は申し訳ない気持ちがこみ上げ、胸がつまった。
「もちろんよ、私でよければ。あの時もあなたの様子がおかしいことに気がついていたのに、私は、随分ときつい言い方をしてしまって、後悔していたのよ」
「…紅子さま」
「いつ、お会いできるかしら?」
「今、会社の近くにいるのですが…」
遠慮がちな声が痛々しく聞こえて、私は意識して明るく答えた。
「偶然ね、私も今会社を出たところなの。良かったら今からお会いする?」
「…良いんですか?紅子さま、回顧展の打ち合わせの連続で、お疲れなんじゃ…」
「大丈夫よ、どちらで待ち合わせしましょうか?夕食でもご一緒しましょう…」
私がそう言った時、キャッチホンが入った音がした。耳から携帯を話し、画面を見ると貴秋さんからだった。
「…貴秋さん」
思わず出てしまった声をかき消すように、すぐに涼子さんの声が聞こえ、私は電話を耳に戻す。
是非今から会いたいと言った涼子さんが待ち合わせの場所を決めてくれて、電話を切った。
貴秋さんのことが気になったけれど、涼子さんの切羽詰まった様子の方が気になった。
私は貴秋さんに、今夜は急用ができてしまったので明日連絡させてください、という旨のメールを送って携帯をバッグに戻し、今来た道を、涼子さんが待つ場所へ向かって戻り始めた。
坂巻透の目撃:「目があったと思ったけど、気のせいか」
―あれ?有馬さんと…あれは…田所さんか?
会社を出たところで、道路の向こうで楽しそうに歩く2人が目に入った。約束してたのかな?あれ、でも、有馬さんは男と食事じゃ…などと思いながら見ていた時、田所さんがチラリとこちらを見た気がした。
僕は会釈するつもりで頭を下げたが、田所さんは、すっと目をそらし、そのまま有馬さんと歩いて行った。
―目があったと思ったけど、気のせいか。
そう思い、しばらくその後ろ姿を見送ると、僕は2人に背中を向け、今日何度目か、数時間前のタクシーでの告白を後悔しながら…駅に向かって歩き始めた。
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涼子が紅子を誘い、2人きりになった目的は?そして2人の男の行動が…。