職場でのパワーハラスメント(パワハラ)に当たるいじめや嫌がらせは増え続けている。厚生労働省は職場でのパワハラを防ぐため、パワハラ行為を法律で禁止することを視野に入れた検討を始めた。現在は明確に規制する法令はない。パワハラ規制が進まないのはなぜか、ジャーナリストの溝上憲文氏が分析する。
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■職場のパワハラがなくならない理由

これまで法的規制が何もなかったパワーハラスメント(パワハラ)にようやくメスが入ろうとしている。きっかけは昨年3月の政府の働き方改革実現会議がまとめた「働き方実行計画」。その中で「職場のパワーハラスメント防止を強化するため、政府は労使関係者を交えた場で対策の検討を行う」と明記された。

厚生労働省は有識者や労使による「職場のパワーハラスメント防止策についての検討会」を昨年に発足。今年の3月に報告書が出されたが、8月末からパワハラの防止を含むハラスメントの法整備に向けた議論が厚生労働省の労働政策審議会で始まった。

ところでパワハラとは何か。政府の検討会の報告書では「職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為」と定義している。例えば、上司が著しい暴言を吐いて人格を否定する、何度も大声で怒鳴り、相手に恐怖を感じさせる行為、あるいは長期にわたって無視したり、能力に見合わない仕事を与えて就業意欲を低下させる行為も入る。

厚労省がまとめた「民事上の個別労働紛争の相談」の中で、こうした「職場のいじめ・嫌がらせ」の相談件数は2017年度が7万2000件。前年度比1.6%増で6年連続トップとなっている。これ以上労働環境の悪化を放置できないところまできているのだ。

ちなみにセクシュアルハラスメント(セクハラ)やマタニティーハラスメント(マタハラ)は、すでに「男女雇用機会均等法」に事業主に雇用管理上必要な防止措置を義務づける規定がある。

だが、このセクハラ規制も世界各国と比べると生ぬるいといわざるをえない。世界銀行の189カ国調査(2018年)によると、行為者の刑事責任を伴う刑法上の刑罰がある禁止規定を設けている国が79カ国。セクハラ行為に対して損害賠償を請求できる禁止規定を設けている国が89カ国もある。しかし日本の規制はこのどちらにも入らず、禁止規定のある国とは見なされていないのである。

また日本も加盟するILO(国際労働機関)が実施した80カ国調査では、「職場の暴力やハラスメント」について規制を行っている国は60カ国ある。しかし、日本は規制がない国とされている。

実は厚労省の審議会ではセクハラ規制も強化するかどうかが焦点となっている。財務省事務次官の女性記者に対するセクハラ問題などを受けて、政府の「すべての女性が輝く社会づくり本部」が「セクシュアルハラスメント対策の実効性確保のための検討を行う」ことを決定しているからだ(6月15日閣議決定)。

■パワハラ規制に反対するのは誰なのか

厚労省の審議会の焦点はパワハラやセクハラ行為をどのような法令によって規制していくかが最大のポイントになる。前述の検討会の報告書によると、職場のパワハラ防止の対応策案として以下の5つが示されている。

(1)パワハラが違法であることを法律に明記。行為者の刑事罰による制裁、加害者への損害賠償請求ができる。
(2)事業主にパワハラ防止の配慮を法律に明記。不作為の場合、事業主に損害賠償を請求できることを明確化。
(3)事業主に雇用管理上の措置の義務づけ。違反すれば行政機関による指導を法律に明記する。
(4)事業主に雇用管理上の一定の対応を講じることをガイドラインにより働きかける。
(5)職場のパワハラ防止を事業主に呼びかけ、理解してもらうことで社会全体の機運の醸成を図る。

最も厳しいのが、(1)の刑法上の刑罰であり、次に(2)の損害賠償を請求できる規定だ。先に述べた世界銀行の調査で多くの国が採用しているセクハラ禁止規定と同じ内容である。そして(3)が現行のセクハラ規制と同じレベルであり、(4)は法的拘束力を持たないガイドライン、(5)は現状と変わらず、何もしないに等しい。

世界標準がハラスメントを禁止する(1)と(2)であることを考えると、最低でも(2)の規定を導入すべきだろうと思う。ところが、検討会の報告書によると、「事業主に対する雇用管理上の措置義務を法制化する対応案を中心に検討を進めることが望ましいという意見が多く見られた。一方、同案の実現には懸念があり、まずは事業主による一定の対応措置をガイドラインで明示すべきという対応案も示された」と述べている。

つまり、法律にパワハラの禁止規定を設けるのではなく、セクハラと同じ事業主に対する措置義務の法制化にとどめるだけではなく、拘束力のないガイドラインの導入すら提案しているのだ。

いったい誰が法制化に反対しているのか。検討会は学者などの有識者のほか、労働組合の代表や経済界の代表で構成されているが、検討会の議事録を見ると、学者などの有識者や労働組合の代表は少なくとも(3)の事業主に対する措置義務の法制化には賛同している。(4)を主張しているのが経済界の代表であることがわかる。

例えば、日本商工会議所の杉崎友則・産業政策第二部副部長はその理由についてこう述べている。

「具体的にどのような行為がパワハラに当たるのかという判断が難しいということもありますし、従業員の方にパワハラの被害を訴えられた場合の事実関係の認定も難しいということで、企業の担当者の方が対応に苦慮しているという意見もありました。(中略)特に中小企業の現場では大いに混乱が起きるのではないかと考えております。すので、このガイドラインを策定して周知していくことが現実的ということです」(2018年3月16日、第9回「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会」議事録)

要するに何がパワハラで、パワハラでないかが明確ではなく、事実関係の認定も難しいのでガイドラインにとどめておけと言っている。しかし、セクハラの措置義務ではセクハラに関するガイドライン(指針)でどういう場合がセクハラに当たるのかが示され、それが会社の就業規則にも明記されているはずだ。同様にパワハラについても指針が出るのは間違いない。何より、ガイドラインだけでは事業主に強制できないので、無視する企業も出てくるだろう。結果的にパワハラ防止の実効性を失うだろう。

■日本は規制のない“ハラスメント後進国”

また、日本経済団体連合会(経団連)の布山祐子・労働法制本部上席主幹もこう述べている。

「周囲の従業員から、あの人はもしかしてパワーハラスメントを受けているのではないかという相談があって、それを確認してみると、本人は指導の範疇だと思っている場合もあります。そのように周囲と当事者との受け止め方に温度差がある場合も判断が難しいと聞いております。このように何がパワハラに該当するのか各企業が判断し切れない状況の中で、ご主張されている措置義務という形で、いきなり法律として課すのは、働きやすい職場環境を作るどころか、かえって企業現場の混乱も生じかねないのではないかと懸念していることから、これまでも法的根拠のないガイドラインでもいいのではないかと申し上げております」(同議事録)

周囲がどのように感じようが、当事者本人が「暴言を吐かれて人格を否定された」と感じない限り、会社もしくは裁判に訴えることもない。しかも措置義務といっても行政指導の範囲内にとどまる。加害者に刑事罰が科されることもなければ損害賠償を請求できる禁止規定でもない。「法的根拠のないガイドライン」は絵に描いた餅であり、現状のままでよいと言っているのと同じだ。増え続ける職場のいじめや嫌がらせの増加を食い止めることは不可能だろう。

日本でのハラスメントの議論が禁止規定ではない「措置義務」の導入の是非に終始している中で、世界各国はハラスメントのより厳しい規制へと動いている。ILOは今年の総会で(5月28日〜6月8日)「仕事の世界における暴力とハラスメント」を禁止する条約化に向けて動き出している。暴力とハラスメントを次のように定義している。

「単発的か繰り返されるかにかかわらず、身体的、精神的、性的または経済的損害を引き起こすことを目的とした、または結果を招くもしくはその可能性がある一定の許容できない行為および慣行またはその脅威と解されるべきであって、ジェンダーに基づく暴力とハラスメントを含む」

つまり、セクハラ、パワハラ、マタハラ以外のあらゆる形態のハラスメントが入る。しかも「被害者および加害者」の範囲も幅広い。使用者および労働者、ならびにそれぞれの代表者、ならびにクライアント、顧客、サービス事業者、利用者、患者、公衆を含む第三者としている。職場内の上司と部下や同僚だけではなく、顧客や取引先からのハラスメントも対象になる。

来年の2019年6月の総会で加盟国の3分の2の賛成が得られると条約(国際最低基準)が採択される。そして加盟国が批准すると各国は「あらゆる形態の暴力とハラスメントを法的に禁止する」などの法的措置をとらなければならない。

ちなみに今年のILO総会の討議では多くの国が条約化を支持しており、その中には中国も韓国も入っている。しかし、日本政府は「立場を保留」している。現状ですら日本は世界の中で規制のない“ハラスメント後進国”だが、さらに世界に取り残されていくことになりかねない。

(ジャーナリスト 溝上 憲文 写真=iStock.com)