エリック・クラプトン新作ドキュメンタリー映画からわかる10のこと

写真拡大 (全2枚)

移り気なクリームからジョージ・ハリスンとの複雑な関係まで、クラプトンの新しいドキュメンタリー映画『Eric Clapton: Life in 12 Bars』から読み取れる数々の事実とは?

リリー・フィニー・ザナック監督の『Eric Clapton: Life in 12 Bars』は、ポピュラーカルチャーにブルーズを浸透させるというミッションにひたむきに取り組むギタリスト、エリック・クラプトンを追ったドキュメンタリー映画だ。60年代のクラプトンは、共にブルーズを追求する真の仲間を求め、無謀とも言えるペースでバンドからバンドへと渡り歩いた。10年足らずの間に、ザ・ヤードバーズ、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ、クリーム、ブラインド・フェイス、デレク・アンド・ザ・ドミノスに参加し、ヒット曲を書き、その後脱退や解散、を繰り返した。バンド仲間は目的達成のための手段にすぎず、クラプトンにとってはブルーズへの傾倒がすべてだった。

『Life in 12 Bars』はまた、クラプトンの幼少時代のトラウマにも迫っている。母親が彼の元を去ってからクラプトンは、祖父母に育てられた。この母親からの拒絶が、その後の彼の恋愛問題や、数十年に渡って苦しんだ薬物依存に繋がったと思われる。同ドキュメンタリーは関係者のインタヴューを極力排除し、クラプトン本人によるナレーションや、過去の映像を多く採り入れている。北米でのライヴ中に荒れるクリーム、デレク・アンド・ザ・ドミノス唯一のヒットアルバムへ向けてのレコーディングセッション中にくつろぐクラプトンと仲間たちを撮影したホームムービー、酔ったクラプトンがステージ上で平常心を保とうとしている1970年代の姿、1990年代にグラミー賞を受賞し成功したMTVアンプラグド・アルバムの曲をプレイするクラプトンなどの映像が収められている。


Getty Images / Courtesy of SHOWTIME

しかし、ドキュメンタリーの中心はあくまでも、クラプトンによるブルーズへの確固とした思い入れだ。「ブルーズに関して、彼に勝てる人間はいなかった」とメイオールは証言する。2018年2月10日にShowtimeで放送されたドキュメンタリーには、絶好調の時もどん底の時も、良い時代も悪い時代もずっと、ブルーズが彼を支えていた様子が描かれている。以下に、同映画からピックアップした印象的な10の事実を紹介する。

1. ブルーズとの初めての出会いはラジオの子供向け番組だった

祖父母に育てられたクラプトンは「時折、孤独でいることがあった」と祖母は証言する。しかし彼は、BBCの子供向け番組『Uncle Mac』で寂しさを紛らした。「Uncle Macは土曜朝のラジオ番組で、子供向けのさまざまな音楽がかかっていた」とクラプトンは振り返る。「時々、ちょっと毛色の違った音楽がかかることがあり、そのひとつがブルーズだった。そんな音楽はほかでは聴いたことがなく、自分のための音楽だと感じた。すべての悩みや苦しみが吹き飛んだ」

しかし、彼の周囲の人間にはある意味で苦痛をもたらした。彼はギターを購入し、家で四六時中ギターの練習を始めたのだ。「夜中によく、騒音に悩まされたものだわ」と祖母は言う。「夜中の3時に彼は起き出して、ビッグ・ビル・ブルーンジーの曲を弾き始めたりしていたの」

2. ポップ音楽での成功には興味がなかった

1964年クラプトンは、ヤードバーズとしてクリスマス・イベントでプレイした。共演者の中にはザ・ビートルズもいたが、クラプトンにとっては彼らを目にすることに重要な意味があった。「ビートルズが現れた時、ファンの絶叫で何も聞こえなくなった。ステージ袖で見ていたが、彼らが既にこんなことは無意味だと思っていることがわかった。ジョージ・ハリスンは明らかに革新的なプレイヤーだったが、彼の弾く物悲しいパートは誰も聴いていなかった」

クラプトンは、自分たちのバンドにはビートルズのようなことは起こらないと思っていた。「ヤードバーズは、自分たちの目指すべき方向性をよく理解していると思っていた。有名になってテレビに出演し、ヒット曲を作ることではないはずだった」と彼は言う。1965年に『フォー・ユア・ラヴ』がヒットした時、「これはポップじゃないか!」とクラプトンは叫んだ。「僕らがやっていたのはすべて、当時の主流にすらなっていなかったブルーズ音楽だった。僕らがある意味パイオニアだったんだ。メンバーのヘアスタイルが、ビートルズに近づいていくのがわかった。もうこのバンドは終わりだと思った。ここにはいられない」と思った彼はバンドを見限った。バンドは、ヒット曲のプロモーションを続けなければならなかったが、リードギタリストが不在になった。

3. ギタリスト以外からも影響を受けたクラプトン

6弦の魔術師として有名なクラプトンだが、ギター以外からもインスピレーションを得てきた。「インド古典音楽のビスミッラー・カーンをよく聴いた」と彼は言う。「彼のリード楽器のようなサウンドをギターで出したかった。ギターで弾いてみたいと思うサウンドで最も大きな影響を受けたのは、リトル・ウォルターのハーモニカだ。アンプを通したサウンドは厚みがあって太く、メロディーがとても美しかった」

4. ギタープレイだけでなくレコーディング技術にも影響を与えた

ジョン・メイオールのバンドメンバーとしてレコーディングに参加するためにスタジオへ出向いた時、テクニシャンが「アンプから5cmのところにマイクを立ててくれ」と言うのを聞いて、クラプトンはイライラしていた。「クラブでの雰囲気を再現したいのなら、数cmではなく3m先の観客席で聴くようなセッティングをすべきだろう、と思っていた」

クラプトンはマイクを移動し、それが新しいものを目指すミュージシャンたちの注目を集めた。「すべてを変えた」とロジャー・ウォーターズは言う。「エリックが登場するまで、イギリスでのギタープレイは皆ザ・シャドウズのハンク・マーヴィンだった。とてもシンプルで、テクニックも不要だった。それが突然、まったく違うサウンドが耳に入ってきた。それ以前のどのレコードとも違うサウンドだった」

5. クリームは美しさを追究する上で刺激的だったが、個人的にはフラストレーションだった

ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーとクリームを結成した時、音楽的には当然非の打ちどころのないものだった。「彼らは12小節や8小節の形式に沿った曲をプレイする訳ではなかったが、ブルーズのフィーリングを備えていた」と、アトランティック・レコードのアーメット・アーティガンは言う。「新しい音楽だった。特にエリックのギターはね」

しかしメンバー同士の不和により、最終的にはグループを維持できなくなった。「毎日、ジャックとジンジャーは言い争いをしていた」とバンドのマネジャーは振り返る。「争いの内容はたいした問題ではなかった。ただふたりは激しく対立していた」 そして1968年、バンドは解散。クラプトンは既に次へ向かって動き出していた。

6. ジョージ・ハリスンとの複雑な関係

クリームが解散へ向かっている頃、クラプトンはビートルズのギタリストとの関係を深めていた。クリームの最後のアルバムに収録された『バッジ』は、クラプトンとハリスンの共作だった。その見返りとしてクラプトンは、ビートルズの『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』でギターをプレイした。「彼らは厳しい審査員のようだった」とクラプトンはビートルズについて語っている。クラプトンとジョージ・ハリスンは、ビートルズ解散後にジョージがリリースした最初のアルバム『オール・シングス・マスト・パス』で再び共演している。

ハリスンとの友人関係を深めると同時にクラプトンは、ハリスンの妻パティ・ボイドに熱を上げていった。やがて、ボイド曰く「情熱が溢れ出す」手紙をクラプトンは送った。「それからエリックは電話をしてくるようになり、”君は明らかに幸せでない。僕のところへ来てくれないか”と言ったの。私は”それはできないわ。私はジョージと結婚しているから”と答えた。彼は優しく思いやりがあり、情に厚い人だった。人生で最も素晴らしい誘いの言葉だったわ。それに比べてジョージはとても冷たく、つまらない人だった」 ふたりは最終的に結婚するが、1979年まで待たねばならなかった。

7. 報われない愛とペルシャの物語から生まれた代表曲『レイラ』

ボイドへの愛が報われない時期にクラプトンは、ペルシャの恋物語『ライラとマジュヌーン』と出会った。「不運の愛を描いた悲劇で、その頃の自分と重ね合わせた」と彼は言う。「パティとの経験を悲劇として捉えたんだ」 クラプトンは、イギリスで『レイラ』の製作に取りかかった。「でもその時は完成させることができなかった」と彼は付け加えた。

8. デレク・アンド・ザ・ドミノスのアルバム完成に重要な役割を果たしたデュアン・オールマンの参加

クラプトンと彼の新たなバンドはマイアミへ飛び、伝説のクライテリア・スタジオで、アトランティック・レコードのエンジニア、トム・ダウドと共にアルバム『いとしのレイラ』のレコーディングに入った。晴れ渡った空の下で才能豊かなメンバーと「2週間セッションしたが、行き詰まった」とクラプトンは言う。「壁に行き当たってしまった」

ダウドはバンドのメンバーを、オールマン・ブラザーズのライヴへ連れて行った。彼らのパフォーマンスが刺激的な効果をもたらした。「彼らのバンドに衝撃を受けた」と振り返るクラプトンはオールマンと意気投合し、スタジオでのレコーディングに参加させることになる。「オールマンは、我々が必要としていた変化をもたらす人間だった」

9. 祖父の死後に悪化したドラッグとアルコール依存症

ボイドとの一件で動揺が続くクラプトンに追い打ちをかけるように、祖父のジャック・クラップが逝去した。彼はますますドラッグとアルコールに依存するようになっていった。「当時は(ドラッグはNGだが)アルコールはOK、という風潮だった。だが僕にとってアルコールは、ヘロインよりもずっと悪影響をもたらした」とクラプトンは証言する。「エリックはクルボアジェやレミーマルタンを見つけると、すぐに手を出していた」と、ギタリストのジョージ・テリーが付け加える。「一度手にすると、なくなるまで離さなかった」

クラプトンは依存症を克服するまでに数年を要した。克服後に彼は、依存症患者を支援する施設クロスローズ・センター・アンティグアを設立している。

10. 人種差別的な発言を後悔している

1976年のコンサート中に行った一連の人種差別的発言が、ロック・アゲンスト・レイシズムのイギリスにおける最初のコンサート開催のきっかけとなった。「自分の発言内容を後から知った時は、ただ自分にうんざりしたよ」とクラプトンは、ドキュメンタリーの中で語っている。「ショックで自分が許せず、当時の自分が恥ずかしい」

これらの発言は、ほぼアルコール依存によるものだという。「熱狂的愛国主義者やファシストになるところだった」と彼は振り返る。「根拠もなく半人種差別主義者のようだった。友人の半数は黒人で、僕は黒人音楽のファンであり継承者でもある。でもボトルを持っている間は、そういうことをすっかり忘れてしまっていた…」