E1東アジア選手権後、日本サッカー協会の田嶋幸三会長は「W杯ではいままで以上の成績を残せるようハリルホジッチ監督をサポートし、全面的に協力していく」と述べた。しかし、一方で、世の中のハリルホジッチ評は芳しくない。2010年南アW杯に臨んだ岡田武史監督も、本番が近づくにつれ支持率を下げていったが、ハリルホジッチへの批判は岡田さんの時より具体的だ。

 最終ライン付近から前線めがけて大きく蹴ることを少しも否定しないサッカー。批判の源はそこにある。誤解を恐れず言えば、それと対極にあるのがパスを繋ぐサッカー。バルセロナであり川崎フロンターレだ。ハリルホジッチの是非を問う論争は、繋ぐサッカーか蹴るサッカーかの選択と一致する。繋ぐ派が、ハリルホジッチのサッカーに異を唱えるのは当然といえば当然だ。

 両者は水と油の関係にある。日本のサッカー史において、代表監督絡みの論争で、対立軸がここまで鮮明になった例はない。

 欧州史に目をやれば、これと同じ類の論争は90年代後半に起きていた。攻撃的サッカーか。守備的サッカーか。

 欧州サッカーは、対ブラジルを背景に成立している。ブラジル人選手の個人技を、欧州人はとてもマネできない。ならばどうするか。導き出された答えが戦術になるのは当然だった。戦い方を工夫することで、弱点を補おうとした。

 画期的だったのは、70年代前半に登場したトータルフットボールと、80年代終盤に登場したプレッシングサッカーだ。いずれも攻撃的サッカーを代表する、発明と言いたくなる戦術だが、当時の世の中が、それ一色に染まったわけではない。その都度、反動で守りを固めて素早く攻める守備的サッカーが流行した。

 プレッシングサッカーを生んだイタリアは、90年代後半に入ると、非プレッシングに転じた。プレッシングサッカーを唱えたアリゴ・サッキを中心とする攻撃的サッカー系の監督は異を唱えたが、国内クラブの3分の2は非プレッシング=カテナチオに走った。

 スペインでは80年代に論争が起きていた。攻撃的サッカーで行くべきか、守備的サッカーに転じるべきか。国を二分した論争になったと言う。当時、欧州で勝てずにいたスペインにとって、現実的な選択は守備的サッカーだったが、論争に勝利したのは、勝てなくてもいいから攻撃的サッカーで行くべきだとの意見で、それを論客としてリードしたのがクライフだった。

 以来、一貫して攻撃的サッカーサイドに立ち続けたスペインが、プレッシングからカテナチオに転じたイタリアと、相まみえることになったのが97−98のCL決勝だ。3シーズン連続決勝進出を果たしたユベントスとレアル・マドリーが、アムステルダム・アレーナで対戦した一戦は、後に振り返れば、守備的サッカー対攻撃的サッカーの天王山でもあったのだ。

 勝ったのはマドリー。攻撃的サッカーか、守備的サッカーか、選択に頭を悩ませていた欧州サッカーは、これを機に、攻撃的サッカーに傾倒することになった。

 日本にはこの事実が伝わってこなかった。トルシエ、ジーコは、守備的サッカーの概念にどっぷりハマるサッカーを実践したにもかかわらず、論争には発展しなかった。その流れはオシムの代表監督就任で変わったが、これまた論争にはならず終い。オシム以前とオシム後で何が変わったのか。明快に説明してくれる人物は現れなかった。

 オシムが就任わずか1年強で病に倒れると、岡田さんがその座を次いだ。こちらの頭を混乱させたのは、その就任2ヶ月後、バーレーンに敗れた後に岡田さんが吐いた台詞だった。

「これからはオレ流でやる」

 それまではオレ流ではなくオシム流だった。これからはオシム流ではなくオレ流で行く。と言うことなのだろう。ではオレ流とはいったい何なのか。岡田さんの従来のサッカーは守備的だった。就任直後も、その延長上にあるサッカーをした。非オシム的サッカーだったが、「これからはオレ流」の文脈に従えば、その逆になる。