「ブラックフェイス(黒塗りメイク)」は日本で行われている人種差別行為の氷山の一角に過ぎない(写真:bee/PIXTA)

「ブラックフェイス(黒塗りメイク)」は人種差別行為か――。昨年12月31日に放映された「ガキの使い!大晦日年越しSP 絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」(日本テレビ)の中で、ダウンタウンの浜田雅功が、アメリカの黒人コメディアン、エディ・マーフィに扮して登場。日本で賛否両論を巻き起こすと同時に、英BBCや米ニューヨーク・タイムズなどもこれを報じた。
擁護派の多くは、「差別的な意図がなければブラックフェイスはOK」としているが、米国出身で在日13年の黒人作家、バイエ・マクニール氏は、これは日本で行われている人種差別行為の氷山の一角に過ぎない、と見る。

日本式の「ブラックフェイス」に初めて出くわしたのは2004年、初来日して間もないときのことだ。日本の友人と渋谷をぶらついていると、交差点付近の壁に、モータウンの衣装と白い手袋を身にまとい、髪にはパーマをあて、顔は黒塗りのゴスペラッツのポスターがあった。

アメリカ人の自分は愕然としたが、日本人の友人の誰1人として少しも驚いていなかった。この日の出来事から、黒人の人種差別的な描写が日本では普通であることを知った。当時は日本に長く滞在しようとは考えていなかった (それが今では13年になる) ため、ブラックフェイスについて詳しく調べなかった。が、この国にほれ込み、ここに住んで生計を立てようと決めてから、それに対する考え方が変わった。

来日から11年後に再び・・・

それから11年後、「ブラックフェイス」が再び自分の目にするところになるとは、まったくといっていいほど考えていなかった。


マクニール氏の昨年12月31日のツイート

それは、ラッツ&スターとももいろクローバーZが、フジテレビの「ミュージックフェア」で共演することになった際、ブラックフェイスで一緒にポーズをとっている宣伝用写真が公開されたときのことだ。このドゥーワップ・グループが恥ずべき“無恥のバトン”を次の世代につなごうとしていることに世界中の目が向けられ、多くの人がショックを受け、当惑した。SNS上でも話題になり、中でも#StopBlackfaceJapanのハッシュタグは注目を集めた。

日本で活動家になろうと考えたことはなかったが、これには活動を起こさねばとの思いを抱いた。日本が世界の舞台で恥をかくのを避けるため、フジテレビに対してこの部分の放映を中止することを求める嘆願活動を行った。当時ファーストレディで来日を予定していたミシェル・オバマ氏と、前駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディ氏にこの問題に介入することを求める公開状も作成した。

嘆願には5000人近くの署名が集まった。大半は日本の人々によるもので、フジテレビと番組スポンサーのシオノギ製薬に送られた。そして3月7日、番組は放送されたが、ブラックフェイスは登場しなかった。画面には小さい文字で番組に編集が加えられているとのメッセージが表示されたが、その理由については推測の域を出ない。

放送中止の理由は明らかに、嘆願書とキャンペーンにより世界から集まったあらゆるたぐいの注目によるものだった。だが、フジテレビも、ほかのニュースメディアも、この件について報じることはなかった。そのため、現在の嘆願活動と同様に、多くの日本人は世界中、および日本に住む人々から、ブラックフェイスに対する非難の声が上がっていることに気づかなかった。

ペリーが残した「ミンストレル・ショー」

これは残念なことだ。というのも、この問題に対する日本人の意見を、「日本には人種差別の歴史がない。だからブラックフェイスは差別的な意図のない、無害なエンターテインメントだ」というものから、「意図にかかわらず、これは人類にとって有害であり、現在の日本に対する好意的イメージを著しく毀損する可能性がある」というものへと変えるには、以下の3点しかないと私は考えるからだ。

第1に、アメリカではなく、日本におけるブラックフェイスの歴史に関する事実に着目することが重要だ。実際のところ、1854年にペリー提督がこの白人至上主義的行為を日本に紹介してからというもの、ブラックフェイスはずっと日本に存在している。

ペリー提督は、日本人の観衆のために、白人の部下にブラックフェイスで「ミンストレル・ショー (顔を黒く塗った白人と、白人が登場する寸劇)を演じさせた。当時の記録によると、臨席していた日本人はこれを喜んで観ていたという。これがあまりに面白かったため、ペリー提督が離日した後も、日本人は自分たちの中で、この人種差別的な行為を続けた。アメリカの直接的関与と関わりなく、日本のミンストレル劇や黒塗りメイクで演じる日本人のコメディアンは1870年から2017年の大晦日に至るまで存在し、これは記録に残っている。

ブラックフェイスを演じる人々は人種差別主義者だろうか? いや、必ずしもそうではない、と私は思う。では、日本に150年以上存在し続けるうちに、ブラックフェイスに内在する人種差別的なDNAは少しでも薄れただろうか。いや、それもないだろう。歴史的な証明を見れば、これには多くの日本人も同意するだろう。

第2に、ブラックフェイスは害になり得るし、実際に害になっていることがある。日本に住むアフリカ系外国人だけでなく、多人種の血を引く日本人、とりわけ日本の学校ですでにはびこっているいじめの被害を受けやすい子どもにとってはそうだ。

2年前にミス・ユニバース日本代表となった黒人と日本人のハーフの宮本エリアナを取材したとき、アフリカの起源を併せもつ女性として日本で前例のない立場となった背景について聞いた。自らが日本人の血を完全には引いていないことで、いじめられ、苦しめられただけでなく、同じくハーフの友人も同様の扱いを受け、悲しいことに自殺にまで追い込まれたことを話してくれた。そして、このことが彼女を成功に導く力になったのだと語った。友人を死に追いやったいじめに向き合い、それに取り組む場を作り出したかったのである。

メディアが「外国人の扱い方」を左右する

日本の子どもの多くは、古い映画の愛好家でもないかぎり、エディ・マーフィという昔のコメディアンになじみは薄い。つまり、純真な日本の子どもがブラックフェイスを施した浜田雅功を見たとしても、それをエディ・マーフィだとは思わないのである。彼らの目には、黒人の外見的特徴を面白おかしく誇張した下手なモノマネが映るばかりだ。

これをこの番組の暴力性とあわせて考えた場合、たとえば学校のような場で、浜田ファンと遭遇する、多人種の地をひく同級生や外国人教師(10年前の私がそうだった)にとって、いい話ではない。だからこそ、ブラックフェイスは完全に無害である、とは言えないのだ。

特に浜田がやったように、ブラックフェイスが笑いの種として使われる場合、暗黙の偏見を助長する。そしてそれは、日本においてすでにしばしば見られる外国人の「他人化」を悪い方向へと導く、肌の色に対する感情や態度につながる。

幸いなことに、私に対して人種的なののしり言葉やヘイトスピーチを投げかける人はこれまでにいなかったが、お笑いであれ、ミュージカルであれ、ニュースであれ、日本のメディアにおける黒人描写の結果として生まれる世界観が、日本人が私をどう扱うべきかを日本人に伝えることになる。これがメディアの力なのである。

第3に、ブラックフェイスは許されるべきではないという意見が、世界では趨勢的である。日本もその正当な一員としての立場を確保しているグローバルコミュニティでは、こうした良識を欠く行為は容認できないという見解で一致している。

現在、日本は東西の思想が融合した好例として、先進国の地位を得ている。ブラックフェイスそのものについては日本のメディアやエンターテインメント界で150年を超える歴史があるが、日本人が文化面での理想の一部としてブラックフェイスにこだわっているのではないと私は考えたい。

ブラックフェイスは氷山の一角

さまざまな人種や国籍の外国人が、現在の日本が持つ魅力的なイメージに引かれて日本への旅を考えている。日本人がブラックフェイスを用いたり、擁護したりしていることは、これらの外国人には、日本人の心理に潜む(ほかの無神経な表現にも表われがちな)無神経さの表れと映る。

このことを日本人が知ったら、ブラックフェイスや、そのほかの人種的特徴の戯画化は、面白かろうがなんだろうが、やめるだろう。公共の場での喫煙を禁じたように。また、日本が示してきた環境生態系に対する品位や洗練を、日本が避けて通ることのできない多元文化への歩みを受け止めるだろう。

とはいえ、ブラックフェイスは氷山の一角にすぎない。これは大いに注目を集めた一角だが、実はさらに大きな病の兆候でしかない。ブラックフェイスそのものが必ずしも人種差別主義的という訳ではないが、日本には人種差別と排外的な感情が確かに存在する。

家探しや職探し、警察による人種や肌の色を疑念の根拠とするような捜査、外国人へのサービス提供を拒む企業や店。そのほかにも目立たない形で、差別はある。大部分の日本人はこうした実態を認識していないため、日本には人種差別はないと確信を持って主張する。今回のように目立つ、警鐘を鳴らすような事態が発生したときに、それが多くの注目を集めることは驚愕に値しない。

問題は、こうした事例を減らすために何ができるか、ということだ。

日本が根深い差別的な考え方をなくすべきであることは、明白だ。なぜなら日本の未来にとっては、日本人と非日本人や多人種・民族の血を引く人々との共存は極めて重要な命題だからだ。これに疑いを持つ人はいないだろう。だが、言うは易く行うは難し。特効薬はない。

たいていの日本人には外国人と直接触れ合う機会がないため、メディア、主にジャーナリストや影響力のある人々に大きな責任があることは疑いようがない。つまり、私たちのイメージや評価はもっぱら彼らの手にゆだねられている。ブラックフェイスは、無頓着さと、グローバルコミュニティへの参加に必要な認識や感受性の欠如を反映している。メディア業界は、自らが独立した存在であると考えているかもしれないが、事実はそうではない。

日本が世界からのけ者にされないために

日本におけるメディアの一部として、自分にも、この責任の一端はある。だからこそ私は当初から、日本に住むアフリカ系の血を引く人々のもう一つのイメージ、つまり、この国のメディアがせっせと広めてきたさまざまな外国人についての間違った情報を打ち消すようなイメージを提示することで、自分の責任を果たそうとしてきた。私たちはおとぎの国の親日派でも、エキゾチックな異邦人でも、要警戒の怪しい人物でもない。私は外国人の経験やものの見方の多様性を示すことで、こうした情報に基づいて外国人が誤解されるのを解くよう、さまざまな取り組みを行ってきた。

現在の時代精神 (トランプ、ブレグジットなど) はさておき、日本は、すでに危険なまでに不寛容へと向かう世界にどのように関わりたいかを自問しなければならない。不寛容へ向かう傾向の結果を私たちは見てきているし、それはかんばしいものではない。

また、これには国民的な議論も必要である。だが、事実が公に提示されなければ、また、公に国の将来に関する議論への積極的な参加が促されなければ、これは実現しない。日本が土俵際まで追い込まれるのを待っていては、手遅れになるだろう。日本にはこの点で先見の明があることを願いたい。

日本は私にとって大切な国であり、わが家だ。日本の友人や家族は私が知る人の中でも最高の人たちである。この国からは、返しきれないくらいに、多くのものを与えてもらった。そして私はこの国を深く愛している。

だが、その愛は見境のないものではない。愛するわが家を世界ののけ者の立場に追いやるリスクがある問題を、黙って見ていることはできない。日本は世界から迫害されるべきではないし、日本にはそれを回避する力がある。友人や愛する人を中傷から守るために、自分でできるあらゆる手段を尽くして擁護したいと思っている。

だが、日本の運命を決するのは、究極的には日本人の手にかかっている。そして、ブラックフェイスを過去の遺物とすることは、最初の一手として最適な象徴的行為となるだろう。