『サージェント・ペパーズ』が完成に近づいたその年の春、マッカートニーはカリフォルニアを訪れ、ザ・ビーチ・ボーイズやママス&パパスのメンバーらと過ごした。カリフォルニアへ向かう途中でマッカートニーの頭には、行くあてのない気ままなバス旅行を撮影した1時間のドキュメンタリー映画のアイディアが浮かんだ。ケン・キージーと、メリー・プランクスターズという名のグループによるバスツアー(ファーザー号)のイギリス版という感じだった。マッカートニーは、映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の構想を描いた。さらにテーマソングも作曲し、1967年4月の終わりから5月初めにかけて行われたバンドのセッション中にレコーディングした。

引き続きバンドは、レノン作の『ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン』に取り掛かった。社会の成り上がり者を痛烈に皮肉ったこの曲は、バンドのマネージャーだったブライアン・エプスタインに対する当てこすりだとも言われている。当時、ビートルズとエプスタインとの間には緊張感が漂い始めていた。エプスタインがスタジオに現れ、「世界初の衛星中継による特別番組『アワ・ワールド』で新曲を発表する」とバンドに告げた時、寝耳に水の話にメンバーはひどく困惑した。その時レノンは了解したものの、その話をすぐに忘れてしまっていた。エンジニアのジェフ・エメリックが後日念押ししたところ、レノンは「え、そんなにすぐ!? 何か書かなきゃ」と慌てたという。

テレビ番組『アワ・ワールド』は、『サージェント・ペパーズ』がリリースされてから3週間と数日経った1967年6月25日に放送された。レノン自身が承知してしまったために作らざるを得なかった曲『愛こそはすべて』は、当時の社会現象「サマー・オブ・ラブ」を象徴する曲になった。衛星放送でビートルズは、事前に録音したバッキングトラックも使いながら、ライヴで演奏した。パフォーマンスには、ザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズも参加した。その頃レノンとマッカートニーは、ストーンズの「この世界に愛を」のレコーディングにも参加している。「愛こそはすべて」は急遽シングルとしてリリースされたが、そのときのB面は「ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン」だった。

『アワ・ワールド』の放送から1カ月半の間に行ったバンドとしての活動は、それだけだった。以前より生産性は落ちていたものの、その時はまだバンド内の不穏な空気は表面化しておらず、メンバー同士のコンセンサスに基づいて行動していた。「例えば、メンバーの3人が映画を作りたいと言っても、残りの1人が乗り気でなかったら、その話は流れただろう」と、当時のマッカートニーは語っている。1967年7月後半、レノン、ジョージ・ハリスン、マッカートニーの3人はギリシャへ旅行した。そこで彼らは島を購入してコミューンを形成し、レコーディングスタジオを作る計画を立てていた。

バンドの創作活動がスローダウンした理由は単純だ。ちょうど”素敵な夏”の真っ最中でドラッグ・パーティが多く開催され、リンゴ・スターの当時の妻モーリンが臨月を迎えていたためだった。マネージャーのエプスタインの家でもパーティが行われた。エプスタインはパーティの前に大事な打ち合わせをしようと、メンバーたちに早めに来るよう伝えていた。「その頃は誰もがめちゃくちゃで、常にラリっていた。打ち合わせどころじゃなかった」と、ハリスンは後に振り返っている。

それでもバンドは、少しは活動をしていた。8月の終わり、マッカートニー作の懐古的な曲「ユア・マザー・シュッド・ノウ」のレコーディングのためにメンバーが集まった。また、超越瞑想の導師マハリシ・マヘシュ・ヨギとも面会している。ヨギはそれから約1年間、彼らの生き方に大きな影響を与えた。

8月27日、ブライアン・エプスタインが処方薬を誤って過剰摂取したことにより死亡しているのが発見された。その頃ビートルズは、徐々に彼と疎遠になっていた。エプスタインとのマネジメント契約の終了期限が迫っていたが、バンドが契約を延長するつもりだったかどうかは定かでない。エプスタインは、ビートルズを冴えない小楽団から世界のカルチャーを制服する軍団へと成長させ、約6年間に渡りバンドのビジネスを切り盛りした。

「我々は彼を愛し、彼は我々の一員だった」と、その頃レノンは語っている。エプスタインは実際、バンドの重要な役割を担っていた。彼の鋭いビジネス手腕のおかげで、バンドは音楽に専念することができた。各メンバーのアーティストとしての個性は、クリエイティブな化学反応を生み出したが、最終的にはビジネスに関わる問題が数年後にバンドを分裂へと導くこととなる。ハリスンはのちに語っている。「メンバーの誰も、自分たちのビジネスや経理についての知識がなかった。エプスタインにすべて任せっぱなしだったが、それが後に混乱を生んだ」

エプスタインの死から数日後、ビートルズは再結集したが、これは『マジカル・ミステリー・ツアー』のプロジェクトを続行する目的であり、新しいマネージャー探すためではなかった。9月5日〜8日にかけてビートルズは、特にサイケデリックな3曲をレコーディングした。幻想的な「ブルー・ジェイ・ウェイ」は、8月初旬のロサンゼルスへの旅行中の出来事にインスパイアされてハリスンが作った。インストゥルメンタル曲「フライング」は、メンバー全員がクレジットされている。そして最もレノンらしい「アイ・アム・ザ・ウォルラス」は、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」からの影響を連想させる。「最初の一行は、ある週末にLSDでトリップしている時に書き、次の行は翌週末のLSDトリップ中。最終的には僕がヨーコと出会った後にできあがった」と、レノンは後に語っている。

これら3曲は、翌週から主要部分の撮影が開始された映画用に作られたものだった。映画製作に関してはLSDに関するいくつかのコンセプトがあっただけで、台本は存在しなかった。9月11日〜15日まで、イングランドの西部地方とその周辺をサイケデリック・バスで旅行し、所々良さそうな場所で止めて撮影した。そして9月16日夜、EMIのスタジオへ入り、エプスタインの死の数日前に始めていた「ユア・マザー・シュッド・ノウ」のレコーディングを完了した。翌週はまた撮影を続行し、ストリップクラブで「デス・キャブ・フォー・キューティ」を演奏するボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンドなどを撮影した。(後に曲と同名のロックバンドが存在するが、この曲がバンド名の由来だとされている。)映画監督の初心者だったビートルズは、1週間もあれば、撮影した10時間分の映像を何とか使える形に編集できるだろう、と考えていた。

しかし実際には、11週間かかった。原因の一端は、メンバーそれぞれが映画に対して別々の意見を持っていたことにあり、さらに、いくつか大切な素材を撮影し忘れており、再度撮影しに戻ったりもした。その合間の9月25日〜10月25日にはアビーロードで何度かセッションを重ね、9月初めにスタートした前出のサイケデリックな3曲の仕上げにかかった。さらに、マッカートニー作の「ザ・フール・オン・ザ・ヒル」と「ハロー・グッドバイ」もレコーディングした。「ハロー・グッドバイ」は「アイ・アム・ザ・ウォルラス」をB面に、シングルとして1967年11月24日にリリースされている。

映画『マジカル・ミステリー・ツアー』は1967年12月26日、BBCで放映されたが、ビートルズとして完全に失敗した初のプロジェクトとなった。BBCがカラーでなく最初にモノクロで放送したこととは関係なく、評判は散々なものだった。「僕たちが本来の役割を逸脱していると思われているんだ」と数カ月後にレノンはこぼしている。「僕たちは、厚紙で作られたお仕着せのスーツを着て、どんな要望にも応えなきゃいけない存在なんだ。僕たちがそれに応えられないときはいつでも、とても失望される」

一方、アルバムとしての『マジカル・ミステリー・ツアー』は、米国内のチャートでは8週に渡りトップをキープし、最終的に6×プラチナを記録するなど、文句ない成功を収めた。本質的にカラフルかつ黙想的で、愛情を感じられると同時に、バッド・トリップとグッド・トリップの両面を含む、幅広く洗練されたビートルズの”サイケデリック”がここに凝縮されている。