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もくじ

ー スタビリティ・コントロールが生まれたとき
ー 1991年3月、未来への扉が開いた
ー 物事は、思ったとおりに進まない
ー あの日、運命を変えた場所へ
ー ヴァーナー・モーン、何を思う?

スタビリティ・コントロールが生まれたとき

数えきれない命が、スタビリティ・コントロール(横滑り防止)装置によって救われている。

今ではコーナーにおけるハンドルの向きとタイヤのグリップ、そしてクルマの挙動を常に監視してくれるこの守護天使の存在は当然のように思われているが、一方で、シートベルトの誕生以来最大の道路交通安全における発明である。

しかし、この発明が偶然の産物であることを知る人は少ない。

1989年、メルセデス・ベンツの若きエンジニアであったフランク・ヴァーナー・モーンは、冬季テスト期間中にスウェーデン北部の凍結路でスリップしていた。側溝に座り込んで、近隣の町から呼ばれたレッカー車を待っている間、彼は突然の閃きを得たのだった。

当時発明されたばかりのABSが、ミリ秒単位でハンドルの角度とクルマのスリップアングルを計測している車載コンピュータとの対話で成り立っているのであれば、何ができるだろうか?

横滑りを防止するため、コーナーでエンジン出力を絞るとともに、必要に応じてブレーキを効かせるというのが、彼のアイデアであった。

同じ頃、ボッシュも同様のアイデアを温めていたが、ボッシュのシステムは緊急制動時のみ起動されるというものだった。一方、ヴァーナー・モーンのアイデアではシステムは常時起動。常に道路状況とクルマの挙動を監視している。

この微妙ではあるが、重要な差がヴァーナー・モーンのアイデアを今日の横滑り防止装置の基礎とすることになったのである。

シュトゥットガルトの本社へ一旦戻ったヴァーナー・モーンと彼のエンジニアチームは、自分達のアイデアを検証するためのプロトタイプ製作を許可された。

1991年3月、未来への扉が開いた

最初の難関は横方向の動きを測定するジャイロセンサーを探すことだった。彼らはおもちゃ屋へ行きリモコンのヘリコプターを購入して、貴重なセンサーを入手するため、すぐに分解したのだ。

そこで、おもちゃレベルよりも早く演算処理が可能なジャイロセンサーが必要であることに気付いた。彼らはスカッドミサイルの弾頭からセンサーを取外し、さらなる耐久テストに使用することにした。

1991年3月、社内にも疑問視する声はあったものの、少数精鋭のチームによる2年間の集中的な開発作業の結果、この新しい技術は生産段階への移行が承認された。

この承認は慎重な運転で知られたひとりの経営幹部によって下された。横滑り防止装置をオフにすると、非熟練ドライバーは最初のコーナーさえスリップ無しでは通過することができなかったことが理由である。

「この技術がコーナーで安全に横滑りを防止することができるのを見た途端、取締役会は承認を出したんです。当時、この技術は驚くべきものでしたから」とヴァーナー・モーンは語る。

最初この技術は1995年にメルセデスの旗艦セダンであるSクラスに搭載された。

が、しかし1997年にスウェーデンの「テクニッケンワールド」誌が実施した急旋回して障害物を避けるというテストにおいて、新型Aクラスを横転させたことで事態は急変した。

物事は、思ったとおりに進まない

Aクラスの横転を機に、それまで最高級モデルのための新技術であった横滑り防止装置を全てのモデルに適用する前に、最も安価なモデルに装着することにしたのだ。

しかしこの直後、メルセデスはこの新しい技術の特許を自社のサプライヤーに対して、一銭の対価を得ることもなく譲渡してしまったのだった。

自動車業界においては、エンジニアによる発明の権利は彼らを雇用する自動車メーカーが握っているのである。

メルセデスは需要に対してこの新たな横滑り防止装置を十分な量、迅速に供給することができなかったために、ノウハウを他社に譲渡し、さらには彼らがこの技術を自分達のライバルカーメーカーに販売することまで許可したのだった。

しかし、10年も経たないうちにドイツ当局は横滑り防止装置を装備した車両一台当たりの死亡者数が減少していることに気付いた。専門家によれば、これまでに横滑り防止装置によって救うことができた命は全世界で100万人を越える。

現在ほとんどの先進国で横滑り防止装置は義務化されており、最も安価な新車にすら装備されている。

多くのドライバーが当然と考えている、陰で黙々とわれわれを助けてくれる横滑り防止装置に敬意を表するため、われわれはこの歴史を変えた技術が生まれた事故現場を探しだすべくスウェーデンを訪れた。

あの日、運命を変えた場所へ

旅はアルペローグ近くにある凍結湖の真ん中から始まった。アルペローグは北極圏に隣接したスウェーデンの小さな村だが、主要メーカーが寒冷地仕様のテストキャンプを設置するため、冬季には村の人口は急増する。降雪期間中、毎週月曜日と金曜日には、エンジニアで満席になった12機以上の飛行機がこの小さな村を離発着するのだ。

月曜から金曜日まで、彼らは文字通りグルグルと輪になって、将来販売されるクルマが滑りやすい状況下でもわれわれを守ってくれるようにテストを繰り返すのである。

ちょっとした郊外ほどの大きさのある荒涼とした凍結湖の上での技術デモンストレーションのあと、30年ほど前にヴァーナー・モーンが助けを呼ぶことになった陸の孤島の町へと向かうことにした。

事故現場に最も近い町はアルペローグから南西約290kmの距離だが、低速走行するトラックや除雪車によって、凍結して起伏のある一車線の道を行くわれわれの行程は通常の2倍の6時間を要した。

路面は非常に滑りやすく、無数にある警告表示板の写真を撮ろうとしても、立つこともままならない程であった。

そうしてついにストロムズンドに辿り着くことができた。しかし、氷と雪に覆われて、町の道も地形もその方角の見分けすらつかなかった。

いくつかの幸運によって、この3500人の小さな集落からあの日ヴァーナー・モーンを救助に来てくれたレッカー会社を発見することができた。

今では会社のオーナーは変わっていたが、彼らは、当時ァーナー・モーンを救ったトミー・ビュルストロムを見つける方法を教えてくれた。彼こそが父親とともに1989年のあの日、新車のメルセデスを回収しに来てくれた男である。

ヴァーナー・モーン、何を思う?

ドイツ語、スウェーデン語、そして英語という言葉の壁があるにも関わらず、われわれが1989年のメルセデスと若き日のトミー、そしてレッカー車とともにビュルストロムが写っている写真を見せると、ビュルストロムはわれわれの訪問目的と、われわれが何を見つけだそうとしているのかを理解してくれた。

その写真を見ると彼の眼は輝き「わたしについてきてください」と言ったのだった。

われわれは真っすぐな、そして凍りついた道を町から4kmほど南へ向かった。舗装は手を入れてからかなりの年月が経っており、まさに何処にでもあるようなスカンジナビアの片田舎だ。

しばらく走っていると、ビュルストロムはクルマを止め、窓から腕を出して、われわれ取材班に合図を送ってきた。そこには未だに大きな側溝があったが、大きな木は道路脇から姿を消していた。

氷点下で何とか暖を取ろうとしながらも、クルマから降りてきたビュルストロムとモーンは分厚いスノージャケットのうえから不器用にハグをしている。

あの事故以来の再開。目に涙を浮かべながら「あれはわたしが発明したにも関わらず、技術を手放さざるを得なかった。しかし、今思えばあの技術を開放して、全てのクルマに広めることができたのは最高の決断でしたね」とヴァーナー・モーンは言う。