コペンハーゲンの通勤風景。「二重スパイ」モーテンが生まれたのは、「世界でいちばん幸福な国」デンマークだった                      (Photo:©Alt Invest Com)

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 アンナ・エレルの『ジハーディストのベールをかぶった私』は、フランス人の女性ジャーナリストがジハーディストとの結婚に憧れる若い(白人)女性に扮し、インターネット上でIS(イスラム国)幹部と接触を試みた稀有な記録だ。

[参考記事]
●ヨーロッパの若い女性がISに渡ろうとする理由とその末路

 それに対してモーテン・ストームの『イスラム過激派二重スパイ』は、デンマークの地方都市に生まれた白人男性がイスラーム原理主義に傾倒し、ウサーマ・ビン・ラーディンとつながるアルカーイダ幹部と接触をもち、その結果、イギリスの情報機関MI5(軍情報部第5課)やアメリカのCIA(中央情報局)にスパイとして雇われることになった経緯を語った、これもまた稀有な証言だ。

デンマークの貧しい家庭に生まれたモーテンが犯罪者へと堕ちていく過程

 モーテンは1976年にデンマーク、シェラン島の西端にある人口2万5000人ほどのコアセーで生まれた。労働者階級の父親はアルコール依存症で4歳のときに家を出てしまい、母親の再婚相手は陰気な男で、妻や義理の息子モーテンに繰り返し暴力を振るった。

 13歳のとき、モーテンははじめて強盗を試みた。友人が父親の22口径のリボルバーを持ち出し、目出し帽をかぶって、安煙草を売る老人の店を襲ったが抵抗されて失敗し、近くのテイクアウトの料理店に押し入ったところ、カウンターにいたのは家族ぐるみでつきあっていた女性だった。たちまち「モーテンなの?」と見破られ、慌てて逃げ出した腹いせに道端にいた年配女性のハンドバッグをひったくったところ、女性は転倒して腰の骨を折った。

 それが悪循環のはじまりで、学校でも問題児だったモーテンはADHD(多動性障害)の子どものための「特別支援学校」に送られた。教室での授業は1日2時間だけで、あとはチェーンソーで森の木を切ったり、へとへとになるまでサッカーさせたりして「障害のある」子どもを健全な市民に育てようとする施設だが、そこですら廊下にホースを引き込み放水するような悪行を繰り返すモーテンをもてあまし、生徒を退学処分できないはずの学校を退学させられることになる。

 16歳で学校から路上に生活の場を移したモーテンは、「レイダーズ」という不良グループに加わった。アメリカンフットボールのオークランド・レイダーズのロゴ入り帽子かぶったグループのメンバーは、主にパレスチナ人、トルコ人、イラン人などのムスリムだった。モーテンは彼らとつるんで、ありあまる時間を安ビールを飲むことと手当たり次第女の子をモノにすることに注いだ。ムスリムの友人たちは、反移民や反イスラームの主張には反発したが、戒律にはしばられていなかった。

 アマチュアのボクシングクラブに通っていたモーテンは、トレーナーから将来性を見出されたものの、女の子をめぐるトラブルで相手の男性を暴行したことで警察に捕まり、少年院に4カ月送られることになる。

 少年院で18歳の誕生日を迎え、出所すると運転免許が取得できるようになっていた。するとボクシングジムのトレーナーは、煙草の密輸ビジネスをやらないかとモーテンを誘った。デンマークは消費税率が高いので、税率の低いポーランドで3分の1に価格で購入した煙草をドイツやデンマークで売りさばくだけでかんたんに儲かったのだ。

 こうして金回りがよくなったのも束の間、バーで絡んできた酔っ払いを殴り倒したことでまたしても逮捕され、暴行で半年間、刑務所に服役することになる。服役中、モーテンはバンディドスという地元の暴走族の幹部と知り合い、出所後は地元コアセーの支部リーダーとなって、毎日のように路上やナイトクラブで乱闘沙汰を繰り返した。

拘置所で出会ったムスリムによって人生が動き出す

 絵に描いたような犯罪者への道を歩んでいたモーテンがなぜイスラームに改宗したのかは、じつはあまりはっきりと述べられてはいない。あるときから暴力を振るうことに罪悪感を覚えるようになった。かつての友人たちが大学を卒業し、定職につき、恋人をつくるのを目にするようになった。新しい恋人(パレスチナ出身だがキリスト教徒)ができて結婚を約束した、などの出来事があって、ある日、町の図書館に行った。歴史と宗教のコーナーで預言者ムハンマドの生涯にについて書かれた本を手に取ったモーテンは、たちまち引き込まれ、閉館まで6時間も読みふけった、のだという。

 ほんとうにこんなわかりやすいきっかけがあったかは別として、モーテンは21歳のときに地元のモスクでイスラームに改宗した。しかしそれは、戒律を守る敬虔なムスリムのイメージとはまるでちがっていた。モーテンの仲間たちは、アパートに集まって、何十本ものビールを空にして改宗を祝ったのだ。

「家の前に川が流れており、1日に5回、その川で体を洗うとする。すると、そのあとに体にほこりや汚れがついているだろうか? 日々、1日5回礼拝することは、これと同じように、罪を洗い流す」

 ムスリムの不良たちは、こうした理屈で、アルコールやドラッグ、セックスを好きなだけ楽しんでいたのだ。

 だがそこで転機が訪れる。身に覚えのない銀行強盗未遂容疑で逮捕されてしまったのだ。

 新米のムスリムとして、モーテンは拘置所で豚肉を食べることを拒否した。するとそれを知って、同じ拘置所にいる、スレイマンというムスリムの改宗者が近づいてきた。

「選ばなくちゃいけない」2人で運動場を歩いているとき、スレイマンはモーテンにいった。「アルコールを飲んだり、ドラッグをやったり、善意を持たずに人生を送るようならば、アッラーはおまえを真のムスリムとは認めてくださらない。心はアッラーのおられる聖域だ。だから、アッラー以外の何者も己の心に住まわせてはならない」

 銀行強盗での告発が見送られ、拘置所を出ると、モーテンは暴走族から足抜けするために、スレイマンとともにイギリスに渡ることにした。スレイマンの妻はパキスタン出身で、実家の家族がイギリス中部のミルトン・キーンズで暮らしていたのだ。

 渡英して数週間たった頃、モーテンは勇気をふるって、デンマークにいる恋人に電話をかけた。「いい仕事が見つかった。貯金もしている。きちんとした住まいもある」というモーテンをさえぎって、彼女が叫んだ。「あんたもイスラムもくそ食らえよ。イギリスなんかに住みたくないし、あんたと暮らしたくもない」

 呆然として電話ボックスを出ると、通りの向こうから「アッサラーム・アライクム(あなたに平安あれ)」と声をかけられた。近くで売店を営んでいる中年のパキスタン人で、帽子でモーテンがムスリムだと気づいたのだ。婚約が解消されたことをすこしだけ話すと、男は同情して、「わたしの仕事を手伝ってくれないか。わたしもあんたに手を貸そう。もう若くないので、店の商品や荷物のことで手を貸してもらいだいんだ」といった。

 親切な男の売店で働くことになったモーテンは、ある日、休みをもらってロンドンのリージェント・パークの端にある有名なモスクを訪れた。そのモスクの本屋で、サウジアラビア人が声をかけてきた。彼はヨーロッパ人の改宗者が現われたことを喜び、「イスラムを学びたいなら。イスラムの国に行ってみてはどうかね?」とモーテンに勧めた。

「イエメンに行かせてあげよう。イスラム諸国でも、学生ビザが一番取得しやすい国だ。パスポートは?」

 あとでわかったが、この男はサウジアラビアの国王一族であるサウード家から世界じゅうに派遣された使者の一人で、(サウジアラビアの国教である)ワッハーブ派にムスリムを引き入れる役目を任されていたのだ。

 こうしてモーテンは、イスラームに改宗して1年もたたないうちに、イエメンの神学校で厳格なスンナ派のイスラームを学ぶことになった。

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