100年以上の歴史を誇る夏の甲子園で、名勝負と呼ばれるものはたくさんある。「甲子園史上最も壮絶な試合」と言われる2006年の帝京(東京)対智辯和歌山(和歌山)もそのひとつだ。最終回、もつれにもつれた強豪校同士の一戦のカギを握っていたのは帝京の1年生ショートだった。

 現在、北海道日本ハムファイターズで活躍する杉谷拳士は『敗北を力に! 甲子園の敗者たち』(岩波ジュニア新書)で2006年夏の戦いについて詳しく回想している。逆転打を放ちながら、たった1球で敗戦投手になった15歳は、あのとき、何を思ったのか?


まさかのサヨナラ負けに号泣する帝京ナイン。右から2人目が杉谷拳士

初めての夏なのに「ラストチャンス」の重圧

――実力のある選手が揃う帝京で、杉谷選手は入学後すぐに抜擢され、1年生ながらショートで起用されました。

杉谷 すごい選手がいるなかで、「どうして僕が?」と自分でも思っていました。おそらく、技術うんぬんではなく、気持ちの部分を評価してもらったのでしょう。もちろん、僕よりうまい選手はたくさんいました。それでも僕を使ってくれたことに感謝しています。「2年かけて育ててやろう」という前田三夫監督の期待も感じました。僕の取り柄は勝ち気なところ。結果を恐れることなく果敢に攻めることだと思っていました。

――しかし、勝ち気とはいえ、3年生にとっては最後の夏。すごいプレッシャーだったでしょうね。

杉谷 帝京はそれまでの4シーズン、甲子園から遠ざかっていました。そのときの三年生は、下級生のころからレギュラーで活躍していた人が多くて、「今度がラストチャンスだぞ」という言葉がミーティングではいつも飛び交っていて、ものすごいプレッシャーを感じました。僕にとっては最初の夏なのに、「ラストチャンスだからな」と言われて。夏の東東京大会で背番号6を与えられましたが、正直、背中が重かった。あの夏は、本当に重たい経験をしました。

――そんなプレッシャーのなか東東京を勝ち抜いて出場した2006年夏の甲子園で、帝京は優勝候補に挙げられていました。

杉谷 選手も監督も「今年は全国優勝できる」と思っていました。実際に新聞やテレ
ビでの報道も、僕たちを評価するものが多かった。もしかしたら、監督には「3年計
画の最後の仕上げ」という意識があったのかもしれません。

――1回戦は如水館(広島)に10対2で圧勝したものの、2回戦の福岡大城東(福岡)には接戦の末、5対4でからくも勝利しましたね。

杉谷 あの試合中、前田監督は怒鳴りまくっていました。試合後も怒りが収まりません。そのあとの練習中もずっと厳しい言葉をかけられるので「クソーッ」と思いながらプレーしていました。3年生に対してはそうではありませんでしたが、2年生で4番を打っていた中村晃さん(現福岡ソフトバンクホークス)とピッチャーの大田阿斗里さん(元横浜DeNAベイスターズほか)や僕には厳しくて……甲子園でも怒られてばかりだったという記憶があります。前田監督が怒るのは、僕たちが消極的なプレーをしたとき。ミスをしてはいけない場面で下がったりするとものすごく怒られました。いつも監督に背中を押されていたので、甲子園に出てもビビることはありませんでした。

――準々決勝で対戦したのは智辯和歌山。ここには、1年生のときから活躍する広井亮介投手、橋本良平捕手(元阪神タイガース)という注目選手がいました。全国優勝経験のある強豪同士の試合は、序盤から乱打戦になり、8回が終わった時点で4対8。帝京の敗色が濃厚でした。

杉谷 9回表にやっと僕たちの反撃が始まりました。1番打者がヒットで塁に出て、2番がデッドボール、4番の中村さんからヒットが続いて追い上げて7対8、ツーアウト満塁の場面で僕に打席が回ってきました。キャプテンの野口(直哉)さんに何かを言葉をかけてもらったのですが、内容はまったく覚えていません。でも、監督に言われたことだけは強烈に残っています。

――1点負けている場面、ツーアウト満塁。一打出れば逆転、しかし打ち取られればそのままゲームセット。3年生の先輩たちの最後の夏はそこで終了です。

杉谷 監督には「おまえがここで打てなかったら、来年、再来年はないからな」と言われました。その言葉を聞いた瞬間、「なんだ、それ?」と思いました。最初の夏で野球人生が終わってしまう。「打てなかったら帰ってくるな」とも言われたような気がします。その瞬間、ムチャクチャ追い込まれたことを覚えています。

――甲子園で何度も苦しい戦いを制してきた勝負師ならでは言葉なのでしょうね。

杉谷 打った瞬間は「やってしまった……」と思ったのですが、サードとショートの間をうまく抜けてヒットになりました。「いやー、危ない、危ない」と一塁ベースで胸を撫でおろしました。次のバッターが秋まで4番を打っていた沼田隼さんだったので、責任を果たせてホッとしました。

――杉谷選手のヒットによって逆転に成功します。甲子園の盛り上がりは最高潮になりました。

杉谷 次のバッターの沼田さんがカーンと打った打球がスタンドに消えて、ベースを回りながら『勝った!』と思いました。

1点差で「ピッチャー・杉谷」に「ウソだろう?」と

――劇的なホームランで、試合は12対8になりました。しかし、勝利の女神は気まぐれです。9回裏、強打の智辯和歌山打線が帝京の投手陣に襲いかかりました。

杉谷 前田監督は、ピッチャーがいなくなることを覚悟のうえで代打を出しましたから、みんな不安を感じていました。9回裏に投げるピッチャーがいない……誰が投げるかという話になって、ベンチで打診された人が「ちょっと……」と断っていたのを覚えています。それでも、9回の守りについたとき、「勝てる」と全員が思っていたはずです。

――点差は4。たった3つのアウトをとれば勝てます。帝京が圧倒的に有利であることは間違いありません。9回裏、過去に投手経験のある勝見亮祐選手がマウンドに上がりました。しかし、ストライクが入りません。先頭打者はフォアボール、次の打者もフォアボール。

杉谷 ランナーがふたり出て、甲子園のムードが完全に変わりました。嫌な雰囲でした。

――そのあと、橋本捕手のスリーランホームランが飛び出して、12対11。もうひとつ、フォアボールを出したところでピッチャー交代。監督が指名したのが杉谷選手でした。

杉谷 監督が僕を指さして「拳士、拳士、肩回せ」と言っているので「ウソだろう?」と思いました。でも、同時に「甲子園のマウンドに立てるのか。ここで抑えたらヒーローだな」とも考えました。投球練習ではいいボールを投げていたと思います。アドレナリンが出ていて、しっかりボールに指がかかっていました。でも、実際にバッターに向かうと、全然ダメでした。考えが甘かった。全力で投げたら、ピューンと抜けてデッドボール……すぐに交代です。

――たった1球だけの登板でした。杉谷選手はまたショートに戻り、打撃投手の経験しかない岡野裕也選手がマウンドに上がりました。ワンアウトはとったものの、センター前ヒットを打たれ、連続フォアボールで押し出し。帝京はまさかのサヨナラ負けを喫してしまいました。

杉谷 押し出しで負けた瞬間、『終わった〜、負けた〜』と思いました。悔しいというよりも、自分の責任を感じていました。最終回の表と裏でまさかの展開が続いて、「オレたち、すごい試合をしたな」とみんな感じていたでしょう。3年生も疲れ果てて、呆然としていました。2年生の中村さんと「オレたちは明日、練習ですかね?」「さすがに1日くらいは休めるだろ」と話していました。

 試合後、前田監督は3年生には優しかったのですが、中村さんと僕には厳しいお叱りがありました。「おまえらみたいな選手がいるから優勝できないんだ」と言われたことを覚えています。「おまえが中心選手になれるはずがない」とも。

――前田監督は悔しさを忘れさせないために、あえて厳しい言葉を突きつけたのかもしれませんね。

杉谷 昨シーズンのオフに前田監督にお会いしたとき、「ひとつ上と、拳士たちの学年は、いい選手が揃っていたから甲子園で連覇を狙っていた」とおっしゃっていました。
僕はこのあと2回甲子園には出ましたが、1年生の夏がすべてでした。あのときに1球で試合の流れが変わる怖さを知りました。野球とは流れのスポーツなのだと痛感しました。そのおかげで、野球に取り組む姿勢が変わりました。1年生ですごい経験をさせてもらいましたね」

杉谷拳士(すぎや けんし)
1991年2月、東京都生まれ。帝京高校時代に3度甲子園に出場。3年時には主将をつとめた。2008年ドラフト6位で北海道日本ハムファイターズに入団。プロ2年目の2010年にはイースタン・リーグの最多安打記録を塗り替えた。内野も外野も守れるユーティリティプレーヤーとして、チームには欠かせない存在。2016年から背番号2をつけている。

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