『ゲンロン0 観光客の哲学』東 浩紀 (著) 株式会社ゲンロン

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斎藤哲也さんの連載「補助線としての哲学」。前回から3回連続で番外編「いま読むべき3冊の思想書」をお届けしています。斎藤さんはこの3冊について「愚かさを増しつつあるこの世界に抵抗するための“希望の書”」といいます。その理由とは――。第2回は東浩紀さんの新著『ゲンロン0 観光客の哲学』を取り上げます。

■世界でも国内でも分断は拡大している

前回に引き続き、今回も番外編として必読の哲学・思想書を紹介したい。

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』は、世界史的なスケールで、新たな連帯のあり方を構想した哲学書だ。

そのキー概念が、タイトルにもある「観光客」である。はて、「観光客」とは何なのか。本書冒頭では、前著『弱いつながり』を要約して次のように説明されている。

<ぼくは2014年に『弱いつながり』という小さな本を刊行した。そこではぼくは、村人、旅人、観光客という三分法を提案している。人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的なありかたが大切だという主張である>

なぜ、「観光客」的なあり方が重要なのか。本書の診断は、リベラル知識人が共有する「他者を大事にしろ」という主張に、誰も耳を貸さなくなり始めているから、というものだ。

ここでいう「他者」とは、自分がよく知っている知人や友人の類を指すのではない。移民や難民のように、自分が属する共同体以外の人々も「他者」に入る。

しかし本書もいうように、イギリスのEU離脱、「アメリカ第一」を掲げるトランプ大統領の誕生、相次ぐテロや極右政党の台頭、日本で吹き荒れるヘイトスピーチなど、いまや「他者を大事にしろ」というリベラルの命法は、現実によって裏切られ続けている。

<2017年のいま、人々は世界中で「他者とつきあうのは疲れた」と叫び始めている。まずは自分と自分の国のことを考えたいと訴え始めている。他者こそ大事だというリベラルの主張は、もはやだれにも届かない>

他者との連帯どころか、世界でも国内でも分断は拡大している。この幻滅するような状況でもなお、連帯の原理を作ることなんてできるのか。

■人文系知識人のグローバリズム・アレルギー

そんな途方に暮れそうな課題に対して、東浩紀は「他者のかわりに観光客という言葉を使う」という戦略を提示する。少し長くなるが、戦略の意図を引用しておこう。

<他者とつきあうのは疲れた、仲間だけでいい、他者を大事にしろなんてうんざりだと叫び続けている人々に、でもあなたたちも観光は好きでしょうと問いかけ、そしてその問いかけを入り口にして、彼らを、いわば裏口から、「他者を大事にしろ」というリベラルの命法のなかにふたたび引きずりこみたいと考えているのだ>

が、この戦略の実行はたやすくない。というのも、近代から現代に至るまで、人文系の哲学者や思想家は、観光客のことなんて、これっぽっちも考えてこなかったからだ。

なぜ、観光客は哲学の対象にならなかったのか。著者は本書の前半で、ヘーゲル、カール・シュミット、ハンナ・アレントといったボスキャラ級の哲学者と対決しながら、この問題を執拗に追求していく。

そうして浮かび上がってくるのは、人文系知識人のグローバリズム・アレルギーである。

<彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている>

人文系知識人のグローバリズム嫌いは、観光客の否定でもある。彼らの人間観、社会観からすると、「ふわふわと国家間を移動する観光客」は、ふまじめな「人間ではないもの」と位置づけられる。政治のことなど考えず、好きなように金を使う「動物的消費者」。そんな奴らがのさばるようじゃ、人間は腐ってしまう。

だが、グローバリズムが進む21世紀に、彼らの思想や理論は通用しない。そこで東は、この人文的発想を逆転させる。「観光客はまさに、20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、20世紀の思想の限界は乗り越えられる」と。

ここから見事な手さばきで、21世紀という時代の図式が整理されていく。曰く、現代において、政治にはナショナリズムが、経済にはグローバリズムが割り当てられ、共存している「二層構造」の時代である。そして、「リバタリアニズムはグローバリズムの思想的な表現で、コミュニタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的な表現である」。

■「郵便的マルチチュード」という新たな概念

この整理をもとに、東は、現代の思想的な困難を次のようにまとめている。

<リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。けれどもその立場は20世紀の後半に急速に影響力を失い、いまではリバタリアニズムとコミュニタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュニタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍も他者も現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である>

いやはや、チャート式も真っ青の整理力・解説力は、円熟という言葉がふさわしい。

では、この袋小路を抜け出す道はあるのだろうか。著者は、ネグリとハートの「マルチチュード」という概念を批判的に検討し、「郵便的マルチチュード」という新たな概念を提出する。そしてこの郵便的マルチチュードを体現する存在が、観光客なのだ。

「郵便的」とは「誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態」であり、「マルチチュード」とは群衆のことだ。

観光客は観光の場で、さまざまな人や事物と出会う。それはたまたま入った美術館や土産物屋かもしれない。もちろん観光客は、そこで連帯しようなんて気はさらさらない。でも「そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす」。その偶然的なコミュニケーションを通じて、あとから「なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる」。

ここに至って本書は、21世紀の連帯のすがた、そしてそれを実現するための方角をはっきりと描き出している。それはまた、21世紀の新たな抵抗のすがたでもある。

<ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。21世紀の新たな運動と連帯と政治はそこから始まる>

ふつうの単行本であれば、ここで大団円となってもおかしくない。だが本書は、さらに第2部「家族の哲学(序論)」と銘打って、「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティ」の探求へと接続されていく。

観光客と家族。一見、共通点のない二つの言葉が、「誤配」や「偶然」を媒介にして結びついていく。ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ドストエフスキーの読解から立ち上がってくる「家族の哲学」もまた、「観光客の哲学」と同様、東浩紀だけが開拓しえた新しい連帯への足がかりであり、うんざりするこの世界に絶望しないための「希望の哲学」でもあるのだ。

(フリー編集者・ライター 斎藤 哲也)