【第9回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 1981年9月23日、田園コロシアムで行なわれた新日本プロレスの興行に乗り込んだラッシャー木村とアニマル浜口。リングに立った木村は、新日本に殴り込む決意を表明すべく、マイクを握った。そのとき放たれた第一声が、「こんばんは」。これが、プロレスの歴史に刻まれることになった「こんばんは事件」だ。アニマル浜口は、笑いに包まれた会場の空気を変えなければならないと考え、行動を起こした。

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新日本のエースとして君臨していたアントニオ猪木国際プロレスのエース・ラッシャー木村(4)

「マズイな……と感じてね。ここはアニマル浜口が何か言わなきゃと思ったら、リングサイドに対戦が決まっていた剛竜馬選手の姿が見えたんで、まずは挑発してやったんです。剛選手は、そのときは対戦相手でしたけど、もともとは国際プロレスで一緒にやっていた仲間だから。目と目が合ったとき、やっぱりどこか通じ合うものがあったんでしょう」

 燃え上がる炎にも負けない、真っ赤なドレスシャツを着ていたアニマルが吠えた。

「10月8日は絶対、我々が勝ちますよ。来いよ、お前。待っとけよ。10月8日、見ていてくださいよ」

 対するアントニオ猪木は、「ふざけるな」と言わんばかりに木村、浜口を睨み続けたまま、リングアナウンサーが向けたマイクをさえぎり、ノーコメントだった。

「自分たちの大将である木村さんが笑われたということは、吉原(功/よしはら・いさお)社長が心血を注いだ国際プロレスが笑われたのと同じこと。アニマル浜口の青春を、故郷を、恩師を笑われたのと同じことなんです。黙っていられるかと。ここでおとなしくしていたら、自分が歩んできた道を、自らの人生を僕自身が否定することになる。だからあのとき、僕は前へ出てマイクを握り、吠えたんです。

 木村さんという人は、そういうことも全部わかっていて、僕に道を譲ってくれたのかもしれないですね。アニマル浜口にふさわしい出番をくれたのかなぁ。木村さんは身長185cmで体重125kg、僕は178cmで体重は100kgちょっと。木村さんは何もしないで立っているだけでもプロレスラーとして絵になるけど、僕はアクションをしないといけないから。

 それに、人間というのは肚(はら)を決めると、度胸が据わるんですよ。僕がプロレスラーになると決めてから、母はよく祖父の話をしてくれました。祖父は島根県の浜田という、荒波の日本海に面したところで漁師をしていたんです。

『お前のおじいさんはね、船乗りだったけど、艪(ろ)をへし折るぐらいの力持ちだったんだよ。豪気で、仲間とのケンカで銛(もり)で刺されたときも、意識が薄らぐなか、自分の血で相手の名前や時間を書き残したそうだ。最期は嵐に巻き込まれて亡くなったけど、自分の身体をしっかりとマストに縛りつけていて、何日か経ってそのままの姿で発見された。命果てるまで、肝が据わっていた』と。

 また、僕が生まれ育った浜田市の浜田城跡には、司馬遼太郎さんが書かれた『浜田藩追懐の碑』というのが建っていまして、そこには次のような一節があるんです。

『石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と素朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである』

 祖父は、まさにそんな石見人の気質を受け継ぐ、剛毅(ごうき)を絵に描いたような人物だったのでしょう。母はそうした祖父のことを話し、勝負の世界で生きていかなければならない僕を励まし、勇気づけようとしてくれました。母にしてみれば、こんな小さな身体で二回りも、三回りもデカい外国人レスラーと戦う僕が不憫(ふびん)に思えたのかもしれません」

 そして迎えた1981年10月8日、新日本プロレス・蔵前国技館大会。ラッシャー木村が1975年6月6日にアントニオ猪木へ挑戦状を叩きつけてから、実に6年の歳月を経て、新日本プロレスと国際プロレスのエース対決が実現した。

 アニマル浜口が剛竜馬に勝利を飾った後、強烈な張り手合戦で始まった木村と猪木の一騎打ちは、両者一歩も譲らなかった。それでも、顔面が血だらけになった猪木が木村に腕ひしぎ逆十字固めを極(き)めると、木村は渾身の力を振り絞って足を伸ばしてロープブレイク。だが、猪木はレフェリーのブレイク要請を聞かず。最後は猪木の反則負けで、禍根を残す形となった。

 新日本プロレスに対し、執拗に再戦を迫る国際軍団は、会場への乱入も辞さなかった。ヒール扱いされながらもアピールを繰り返した結果、11月5日、同じく蔵前国技館で「猪木vs.木村」が再戦。セコンドがリングを取り囲み、選手がリング下に逃れられないようにするランバージャック・デスマッチとして行なわれた試合は、猪木がふたたび腕ひしぎ逆十字固めを極(き)めると、このままでは木村の腕が骨折すると判断したセコンドがタオルを投入。木村のTKO負けとなった。

 さらに、年が替わって1982年9月21日、大阪府立体育館。今度は、敗者が髪を切られるヘア・ベンド・マッチとして行なわれた「猪木vs木村」戦は、猪木が勝利したものの、勝負が決まる直前の場外乱闘中に事件が起きた。「国際軍団」に加わっていたストロング小林からハサミを渡されたアニマル浜口が、どさくさに紛れて猪木の髪を切るという暴挙を働いたのだ。試合後は、敗れた木村とともに国際軍団全員が逃走。悪役ぶりをヒートアップさせる国際軍団に対し、新日本プロレスファンの憎悪は頂点に達した。

「必死でしたね。そりゃ、3人だけですから、心細くないといえば嘘になります。でも、自分たちが3人だけで吉原社長が掲げた国際プロレスの看板を背負っているんだ、という気持ちでした。だから、肝が据わった。

 国際プロレスは潰れたけど、そこから必死に這い上がって、新日本プロレス、そしてアントニオ猪木という大きな壁に立ち向かっていったんです。そんな僕たちの戦う姿を見て、仕事や何かがうまくいかず、今つらい境遇に置かれている人たちが勇気を得て、発奮してくれたらという想いもありましたね。

 誰が相手であろうと、どんな試合でも、成立させるのがプロレスラーですけど、生易しいものじゃなかったですよ。お客さんからは、『帰れ!』コールでしょ。『テメェらが帰りやがれ。こっちは人生をかけて戦っているんだ』と思っていました。

 とにかく、盛り上がらなかったら、お客さんが入らなかったら、話題にならなかったら、プロレスラーとして恥ですからね」

(つづく)
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