プロ野球という世界は、各世代を代表する"バケモノ"が集まってくるワンダーランドである。常識では測れない才能の持ち主がひしめき、高い次元で優劣を競い合う。なかには大谷翔平のような、"キング・オブ・バケモノ"までいる。

 そんな弱肉強食の世界に身を投じた逸材たちは、自分の食い扶持を稼ぐためにせっせと技術を磨き上げていく。しかし、その命より大事な技術が、ちょっとしたきっかけですべて消え失せてしまうことがある。特に多いのが、こんな現象だ。

 自分の投げ方がわからない――。

「箸を使う」「歯を磨く」といった日常的な行為のように、野球選手にとってごく当たり前のはずの「ボールを投げる」という動作ができなくなる。この症状は「投球イップス」とも呼ばれている。超人であるプロ野球選手のなかにも、自分の投げ方がわからなくなってしまう選手は少なくないのだ。

 11月12日に甲子園球場で行なわれた12球団合同トライアウトでは、そんな症状に苦しめられた選手たちも参加していた。

 北方悠誠(きたがた・ゆうじょう)はかつて、最速158キロを計測したこともある剛腕だった。2011年のドラフト1位でDeNAに入団。3年目の2014年には一軍キャンプに参加するなど、首脳陣から将来の中心投手に......と期待をかけられていた。

 だが同年のオフ、北方は球団から戦力外通告を受ける。シーズン途中から自身の投球フォームを見失い、本人も認めるように「投球イップス」になってしまったのだ。

「2年前にクビになって、(トライアウトに)挑戦はしたんですけど、うまく投げられなくて......」

 2014年に初めてトライアウトに挑戦した北方のマウンド姿に、多くの関係者とファンは言葉を失った。まるで右腕の通し方を忘れてしまったかのように、ぎこちなく縮こまったテークバック。ほんの半年前までは「トッププロスペクト(有望株)」だったとは思えない状態だった。この日、北方は打者3人に対して2つの四球を出している。

 翌年はソフトバンクと育成選手契約を結んだが、三軍での成績は惨憺たるものだった。9試合に登板、5回1/3を投げて21四死球、防御率23.63。わずか1年限りで2度目の戦力外通告を受けている。

 北方は壊れてしまった――。

 誰もがそう思っていた。だが今年、3度目となるトライアウトに挑戦した北方は、見違えるような姿を見せた。以前と比べて投球動作はスムーズになり、ストレートは最速143キロをマーク。スライダーでもストライクが取れた。これまでのように、ただストライクゾーンを目指して悪戦苦闘するだけの投球ではなかった。

「今年の7月に愛媛(マンダリンパイレーツ/四国アイランドリーグ)に入って、試合にいっぱい使ってもらえるようになってから、そのなかでいい感覚が増えてきました。まだ完璧ではないんですけど、ちょっとずつ階段を上っていると思います」

 今季、シーズン途中から愛媛に加入した北方は、15試合、33回1/3を投げ、四死球15、防御率2.43という成績を残した。

 それ以前に所属していたBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスでの同僚で、2011年のDeNAドラフト同期でもある伊藤拓郎は、北方についてこう語った。

「客観的に見ても、群馬では北方の登板機会が少なかったので。(今年は)崩れていたフォームも良くなりましたし、今日は見ていて僕もうれしかったですね」

 実戦を積むなかで、マウンドで余計なことを考えなくなったことが、北方に好循環をもたらした。現在、北方がフォームについて考えていることは1点だけ。それもボールをリリースする右腕ではなく、最もボールから離れた位置にある「左足」だという。

「今は投げるときに『左足を開かない』ということだけしか意識していません。足だけを意識して、バッターに向かっていく。今までは上半身のことを考え過ぎてしまっていたので、なるべく『下、下』というイメージで投げています。左足でタイミングを合わせて、上半身はそれについてくるくらいの感じです」

 下半身を意識することで、上半身は無意識のうちに「振られている」感覚をつくる。こうして、北方は自身が思い描く投球に近づきつつある。

―― 今、ピッチングが楽しいんじゃないですか?

 そう聞くと、北方は実に晴れやかな笑顔を見せ、「はい」とうなずいた。

「いま、ピッチングがめっちゃ楽しいですね。投げていて、バッターと対戦できるということが。自分のなかでは、これからもっと良くなる感覚があります」

 8月には最速150キロをマークしたという。まだ上るべき階段は多いにしても、北方は自身の向かう先にはっきりと光を見出している。

 2015年秋に開催されたトライアウトで最も多く安打を放ったのは、2014年にヤクルトを戦力外になった貴規(たかのり/佐藤貴規)だった。7回打席に入って4安打。シュアな打撃を存分に披露したが、貴規にとって実戦形式に入る以前に"難関"がそびえていた。

「僕の場合、まずシートノックをどうするかが大事だと思っているので......」

 貴規はヤクルト時代、どんなにファームで好成績を残しても育成選手契約だった。支配下登録されなかった理由は、貴規のスローイングにあった。昨年のトライアウトでは、シート打撃が始まる前のシートノックでこんなシーンが見られた。

 センターのポジションについた貴規がゴロをさばく。捕球まではごく普通だが、スローイング動作に入ると突然、動きが遅くなる。自分の右腕の通り道を確認するように大きくテークバックを取り、不自然にトップをつくって腕を振る。送球は何度も抜けたり、引っ掛かったりと、安定しなかった。

 この時点で、貴規のトライアウトは終わったと言っても過言ではなかった。どれだけシート打撃で打とうが、このスローイングを見て獲得に乗り出す球団があるとは考えられなかった。事実、貴規に声を掛けるNPBのチームはなかった。

「去年のトライアウトは、緊張で地に足が着いていない状態で受けていました」

 貴規はそう振り返る。シート打撃で4本のヒットを放っても、気分は晴れなかった。そして今年、貴規は昨年に引き続きBCリーグの福島ホープスに所属した。今季の成績は71試合に出場して、打率.313、7本塁打、46打点、24盗塁。3度目の挑戦となるトライアウトでも、やはり守備面が課題になることは間違いなかった。

「トライアウトを受けるまでの1カ月間、ずっとスローイングをメインとして練習してきました。僕のなかでスローイングは気持ちの問題が大きかったので、まず技術以前に考え方とかそういうところから直していこうと取り組みました。そうすれば自信もついて変わってくるのかなと」

 長兄の史規さんが毎日練習に付き合ってくれ、ノックを打ってくれた。またほかにも協力者がおり、貴規の送球を捕ってくれた。「周りの方々のおかげで、満足のいく練習ができました」と貴規は感謝を口にする。

 気持ちの問題が大きいと考えつつ、技術的にも改善を試みた。

「投げるときに、できるだけ顔の近くに腕を通すということを意識してやったり、ブルペンに入ってピッチングしてみたり。1カ月間で工夫しながらやってきました」

 そして迎えたトライアウト当日。次兄の由規(ヤクルト)から、「LINE」でメッセージが届いたという。

「長文だったので全部は覚えてないんですけど(笑)。いいところを見せてやろうとか、しっかり投げようとか、アピールしなくちゃとか、そういうのは捨てて、気負わずに今までやってきたことを出して頑張ってこい。そんな内容でした」

 貴規にとっての勝負は、シート打撃の前にシートノック。ぎこちなさはまだ残っていたが、捕ってから投げるまでのスピードが速くなり、無難にこなしていた。少なくとも1年前のように、悪い形で目立つようなことはなかった。

「今回は自分の思うように体が動いたのが良かったです。去年に比べると、今年は満足のいく結果(シート打撃で7打数1安打)は出なかったんですけど、振り返ってみると去年や一昨年のトライアウトに比べれば、少しは成長できたのかなと思います。悔いはないです」

 そして、今後について聞かれると、きっぱりとこう答えた。

「僕のなかでは、今回のトライアウトが最後というつもりで受けたので。オファーをいただけることが一番いいんですけど、そうでなかったときは野球を引退しようと思っています」

 野球の「キャッチボール」は、しばしばコミュニケーションの比喩として使われることがある。たったひとつのボールを交わすだけで、相手からいろいろな情報が伝わってくるものだ。だが、このキャッチボールが満足にできなくなってしまったら、野球が一気につまらなく感じられてしまう。北方悠城と貴規は、こうしたどん底の真っ暗闇から這いつくばって、ここまで登ってきたのだ。

 2人に念願のオファーが届くかはわからない。だが、ともに野球の原点、楽しさを思い出したかのような表情に、悲劇性は少しもなかった。

菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro