マチウ・リカール1946年、フランス生まれ。僧侶。その他に著述家、翻訳家、写真家、ダライ・ラマの通訳などの顔もあわせ持つ。(Getty Images=写真)

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誰もが手に入れたいが、どこにあるのかわからない「幸福」。しかしある実験では、脳内の幸福度を測定できるという。そこで浮上したもっとも幸福な人の素顔とは――。

■ポジティブな人は左脳が活発?

世界一幸福な人と聞いて、どんな人物像を思い浮かべるだろうか。豪邸に住む大富豪や、大勢の家族に囲まれた長老を想像した場合、驚くかもしれない。なぜならマチウ・リカールこそ、その人なのだから。

マチウが世界一幸福と呼ばれる根拠は、脳にある。脳と感情の関係を研究する脳神経科学者リチャード・デビッドソン博士は、幸福感、喜び、気力の充実など、肯定的な感情を持ちやすい者は、大脳皮質の前頭葉の一部、左側の前頭前野が活発であるという事実を突き止めた。逆に右側の前頭前野が活発な者は、悲しみ、心配、悩みなど否定的な感情を持ちやすい。

この脳の中の幸福度を測定する調査実験に参加したのが、マチウだった。マチウは何種類かある瞑想法の中から、「精神集中」、「心の全開」、仏像などを克明に思い浮かべようとする「ビジュアル化」、他者の利益に自分を心から差し出す「利他の愛と思いやり」などを実践。脳波を測定すると、「利他の愛と思いやり」の瞑想中、前頭前野の活動が左側に大きく偏り、それまでの被験者150人では見たことのないレベルで、脳波の変化が記録されたのだ。この結果をきっかけに、マチウは世界一幸福な人物と呼ばれるようになった。

マチウ・リカールは一体どんな人物なのか。父は哲学者、母は画家。ノーベル賞を受賞した教授のもとで細胞遺伝学の博士号を取得した後、研究員として将来を嘱望されていた。しかしチベットから亡命して難民として暮らす高僧のドキュメンタリー映画に感動したことで、毎年ヒマラヤに通うようになり、本格的な仏教修行の道に入る。そして僧侶になるとインドとブータンに住み、手紙が数カ月に1通届く程度のメディアも何もない環境で、俗世から遠く離れた生活を送った。後に父親との対談本がフランスでベストセラーになるが、著作権と印税のすべてをアジアの財団に寄付。今はネパールの首都カトマンズの寺院を拠点に、ダライ・ラマ14世のフランス語通訳としても活躍している。

マチウと親交があるチベット学者の今枝由郎氏は、印象をこう語った。

「対談本の現場を間近で見たのですが、知識人として権威の虜になっている父親に対し、マチウは包容力があり、人間性の大きさを感じましたね。何より地位の高い研究員の身分を捨て、チベット仏教に帰依し、僧侶になったことの真剣さに、彼は偽物ではないと確信しました」

■利他の愛に包まれ幸福になる思考法

実験によって、「利他の愛と思いやり」の感情で瞑想すれば脳内の幸福度が上がることがわかった。そしてこれは修行経験者だけができる行為かといえば、そうではない。一般人でも繰り返し行っていると、脳内の回路が変化し、肯定的な感情が定着しやすくなるのだ。やり方のヒントが、マチウの著書『幸福の探求』と、実験を報告した書籍『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』に示されているので、紹介しよう。

利他的になる最初の方法として、マチウは他人と立場を入れ替えることを挙げる。他人の目で自分の自我を見つめ、いかに自分が利己的で傲慢な人間か客観視するのだ。

そしてもうひとつの方法が、愛している人がひどい境遇にいる場面を想像すること。たとえば、母親が狩人に追われる雌鹿だと考える。そして骨を折って、狩人にとどめの一撃を加えられようというとき、自分に向かって助けを求めてくる。すると無力感を覚え、愛する人を慈しむ力強い感情が生まれるという。さらに「その人の苦しみを和らげて、苦しみの原因を何とか取り除いてあげたい、という望みが湧くものである。こうした思いやりの気持ちが心一杯に広がったら、そこにしばらく留まるといい」。

また息を吸うとき、心が光り輝くボールだと考え、それが灰色の雲となって、人々の病、混乱、心の毒を引き受けるイメージも推奨。こうした他者の苦しみを背負う思考によって、「執着も固執も一切伴わず、この上ない幸福を感じる」とマチウは強調する。

瞑想は幸福感を得るだけでなく、感情をコントロールする手段としても使える。たとえば感情に打ち負かされそうなときには、巨大な波が渦巻く嵐の海で、自分の船が沈没しかけて死にそうな光景を空想。そして同じ場面を上空の飛行機から眺め、ほとんど動きがない海面を思い描くと、怒りや執着の大波は「心がつくりだした虚構にすぎず、浮かんでもやがては消える」と思えて、感情の波が落ち着くという。

実はこれらのマチウの思考は、特別なものではない。

「人間が幸福であるため、すぐにどこでも実行できるのは利他の精神というのは仏教の教え。ただし彼はチベット仏教僧という無一物の立場で、自分の信じること、利他に全身全霊を傾け、迷わず人生を生きているのが素晴らしい。どの時代でもどの地域でも、仏教は本来、彼のような生き方を目指しているんです」(今枝氏)

幸福はすべての人の頭の中にある。しかしそれを感じられるかどうかは、本人の姿勢次第なのだろう。

■世界一幸福になるための3冊

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『幸福の探求』
マチウ・リカール(評言社)
「幸福は習得可能な技術である」という考えのもと、科学的な実験結果や仏教的見地など多角度から幸福を検証する。「はじめに」ではマチウの詳しいプロフィールがわかり、最後には本文で引用した「瞑想の実践」が掲載されている。
 

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『僧侶と哲学者』
ジャン=フランソワ・ルヴェル+マチウ・リカール(新評論)
フランスを代表する無神論哲学者の父親と、科学対宗教、キリスト教対仏教、西洋対東洋といった視点で白熱した議論が行われる。フランスでベストセラーになり、21カ国語に翻訳された。この本によって同国でマチウは有名人に。
 

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『幸福と平和への助言』
ダライラマ(トランスビュー)
年齢、職業、境遇など、50のカテゴリーの人に向けた、ダライ・ラマによる助言集。マチウは聞き手として参加している。「敵であれ友達であれ、他人のことを気づかおう。それが本当の慈悲の基礎である」の教えは、当然マチウに通じる。
 

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(鈴木 工=文 Getty Images=写真)