UPQ社長 中澤優子氏(UPQが入るDMM.make AKIBAにて)

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携帯電話をつくりたくて入社したカシオが、携帯事業から撤退。それを機に退職。カフェを経営しながら、2015年、家電メーカーを立ち上げた。発売初年度からビックカメラが全店で展開する、ものづくりの秘密に迫る。

■私ならもっと売れる携帯をつくれる!

【田原】中澤さんは家電をおつくりになっているからエンジニアなのかと思ったら、文系のご出身ですね。中央大学の経済学部を出られた。

【中澤】国語と数学と英語で受けられる私立が中央大学しかなかったんですよ。経済学部もこだわりがあったわけではなく、経済なら何でもできるかなという安易な考えでした。

【田原】中澤さんは2年生のときから会社訪問をしていたそうですね。どうして通常よりも1年も前に就職活動を始めたの?

【中澤】各業界の構造を自分の肌で確かめたかったし、文系の私が入社したときにどんな仕事が待っているのかということも知りたかったんです。業界地図みたいな本を買って、各業界の1位、2位、3位の会社、それからランキング外だけどおもしろいことをやっている会社、ぜんぶで130社近く回りました。

【田原】どこがおもしろそうだった?

【中澤】経営者が直接話をしてくれる会社が印象に残りました。キヤノンの御手洗冨士夫さんとか、セブン−イレブンの伊藤雅俊さんとか。あと、カシオ計算機の樫尾和雄社長も話をしてくださいました。

【田原】結局、カシオに入社される。会社訪問の印象が強かった?

【中澤】そうですね。それと、3年生のときには携帯電話をつくりたいという思いが固まっていました。受けたのも、シャープさんやソニーさん、パナソニックさん、NECさん、日立製作所さんなど携帯電話メーカーばかり。最後がカシオでした。

【田原】どうして携帯電話なの?

【中澤】私は極度の機械オンチ。でも、携帯電話は唯一、私にとって機械じゃなかったんです。初めて携帯を持ったのは中1のころ。最初は電話だけでしたが、そのうちメールや絵文字を頻繁に友達とやりとりするようになりました。携帯電話を使いこなすことがとっても楽しかった。学生になっても、バイト先は携帯ショップでした。

【田原】働いてみて、どうでした?

【中澤】携帯は1年に約300機種出ますが、売れるものは一部。私から見ても、どうしてこんなダサいのをつくってるんだろうと疑問に思う機種も多かった。「私ならもっと売れるのをつくるのに」と思ってました。

【田原】カシオ以外のメーカーは選ばなかったのですか。

【中澤】私は文系なので、「携帯電話をつくりたい」と伝えても、「うちに入っても営業だよ。キミ、白物家電を売れるの?」と言われてしまって。唯一、「おもしろそうだ」と言ってくださったのがカシオでした。

【田原】念願が叶ってカシオに入社。

【中澤】私は就職氷河期の後の入社です。職場には氷河期世代の人がいなくて、近い先輩でも12〜13歳上でした。私は携帯が好きなだけで入社したので、ものづくりの知識はゼロです。でも、質問すると、オジサンたちが目をキラキラさせて、ものづくりの楽しさを教えてくれた。そこで学んだものは大きかったですね。

■孫正義の頭を光らせて採用決定

【田原】具体的に、どんな商品を企画したのですか。

【中澤】最初に手掛けたのは、カシオがソフトバンクに初参入するときの1号機でした。ソフトバンクって、孫正義さんがプレゼンのときから全部の機種をチェックするんですよ。ただ、孫さんは時間がないから1分で魅力を伝えないといけませんでした。私が企画した機種はカメラに特徴があったのですが、どう伝えようか、かなり迷いました。

【田原】結局、どうプレゼンしたの?

【中澤】「この機種は、孫さんの顔がイケメンに撮れます」って言いました。実際、その場で撮ったら、孫さんの頭がピカッと光っていて、みんな大爆笑。孫さんが「俺の頭を光らせた」と喜んでくれ、参入が決まりました(笑)。

【田原】うまいこと言うね。

【中澤】ショップでバイトしていた経験が活きたのかもしれません。店頭でも、機種の特徴を一言で説明しないと売れません。あれこれ説明する時間はないし、お客さんも細かい説明を求めていない。プレゼンも同じだと思います。

【田原】カシオには何年いらしたんですか。

【中澤】5年です。カシオはNECと日立と合弁会社をつくっていました。しかし携帯が売れなくなり、国内外で採用がなくなり、新機種を出せない状況が続きました。それでリストラが始まって、私も自分で辞めるか、別の部署に行くか、NECさんに移るかという選択を迫られました。

【田原】どうして携帯が売れなくなったんだろう。

【中澤】スペック競争に入ってしまったからでしょう。ユーザーにとって、0.1ミリ薄いかどうかはどうでもいいこと。でも、その違いで採用されたりするので、本来は求められていない機能まで追加するようになってしまいました。機能を追加すれば開発費がかかって価格も上がります。誰も買わなくなるのも当然です。

【田原】中澤さんはカシオを辞めて、カフェをおつくりになった。ずいぶん唐突な気がするけど。

【中澤】携帯電話の商品企画もそうなんですが、私は何かお題があって知恵を絞るということが好きなんです。でも、機械オンチだから、電気製品はつくれない。自分1人でできるのは料理と空間かなと思って秋葉原でお店を始めました。

【田原】メーンはパンケーキだそうですね。パンケーキがお好きなの?

【中澤】いえ、じつは嫌いです。私、生クリームが苦手で(笑)。

【田原】なぜパンケーキを?

【中澤】理由は2つあります。まずカシオで「自分が好きなものは誰でもつくれる。ユーザーが欲しいものを考えられたら商品企画として一人前」と教えられたから。それに、そもそもお店を始めたのは、カシオでリストラにあった先輩たちが一息つける場所をつくりたかったからということも大きい。私にものづくりの楽しさを教えてくれたオジサンたちの中には、ハローワークに行っても仕事がなく、奥さんに逃げられて自殺を考えた人もいます。夜にお酒が入ると愚痴っぽくなるので、明るいうちに甘いものを食べて、みんなにハハッと笑ってもらえたらいいなと。

【田原】開店するまでにどれくらいかかったんですか。

【中澤】1カ月です。普通は3カ月かけるそうですが、私は3カ月も何もしないで過ごすことができないタイプなので。

【田原】カフェの経営はうまくいったのですか。

【中澤】はい。おかげさまで今もやっています。秋葉系のオタクちゃんから、すごくオシャレなオネエサン、おじいちゃんおばあちゃんまでいろんな人が来てくれて、私にとっていいインプットの場になっています。なので、カフェはカフェで続けていくつもりです。

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田原総一朗
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。若手起業家との対談を収録した『起業のリアル』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

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(村上 敬=構成 宇佐美雅浩=撮影)