皆さんこんにちは、駒場野です。

2016年最初のコラムは……本当は別のネタにしようと思っていたのですが(笑)、やはり緊急性の高いこれにしました。

日本サッカー協会(JFA)初である、オープンな形での会長選挙です。先日の木曜、1月21日に告示され、次の日曜の1月31日に投票が行われて、日本サッカーの新しい顔が決まります。

今回も(1)と(2)に分け、まず(1)では二人の候補者の経歴や主張を、立候補資料や報道内容を引用しながらまとめ、選挙の論点を整理しようと思います。

……そして、今回も「敬称略」で書きますが……このテーマは結構重い上に、しかも田嶋さんと原さんを何度も呼び捨てにするのは辛い、辛すぎる(苦笑)。なので、今の私はまんじゅうが怖いです。あ、あとはお茶も怖い(笑)。

JFA会長選挙

≪24日に行われた朝日新聞でのシンポジウムの開会前の光景。左から2番目が田嶋、中央が原の席。一番左は司会の潮、一番右から大住、北澤≫

今回は選挙になったワケ

では、そもそもなぜ会長選挙という話になったのか、という所から見ましょう。

2015年12月15日付の「フットボールチャンネル」で、ここまでの流れが紹介されていました。

JFA新会長はどう決まる? 知られざる選挙の仕組みを解説。現会長意向表明者は原専務理事と田嶋副会長
http://www.footballchannel.jp/2015/12/15/post125908/

以前の大日本蹴球協会、さらに1974年までの日本サッカー協会時代を含め、JFAの会長は基本的に話し合いで決められてきました。1976年、当時は代表監督だった長沼健が主導して会長人事を一新し、自らが専務理事としてサッカー界の改革に着手した「政変」でも、理事会での話し合いにより野津謙会長が退任を了承して円満に体制が移行した「無血クーデター」でした。

私が調べた限り、会長の選任で唯一「投票」が行われたのは2010年、W杯南アフリカ大会の前に起こった犬飼基昭会長の退任時です。浦和レッズの社長から転じてフル代表のW杯出場という結果も残した犬飼は2期目への継続に意欲を見せていましたが、強引とも取れる一連の手法は多くの反発を生んでいました。

そして、評議会での承認を得るため予め一本化する会長予定者の提案投票では理事25名のほぼ半数が理事としての犬飼信任を拒否し、川淵三郎名誉会長が委員長である「次期役員候補推薦委員会」で犬飼が「体調不良」を理由に会長退任を申し出た、そして小倉純二副会長が昇格……という事になっています。

確かに衝撃的な「事件」でしたが、これも評議会による正式な投票ではなく、事前調整での出来事でした。会長の選任機関である評議会で正確に票数を数えた議決ではありません。

「ゲキサカ」2010年7月24日付(文:西山紘平)
「日本協会・犬飼会長が退任、小倉副会長が新会長に昇格へ」
http://web.gekisaka.jp/news/detail/?71610-59991-fl

牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評 2010年7月31日
「犬飼基昭会長退任の真相は?」
http://blog.goo.ne.jp/s-ushiki/e/e21301bb92feb79a38e2493fc4035320
※牛木は元読売新聞編集委員、「ビバ!サッカー研究会」主宰、日本サッカー殿堂顕彰者、東京ヴェルディ設立時の関係者の一人

これに対し、FIFA(国際サッカー連盟)は2013年にJFAの役員選定規約がFIFAの標準規約に準拠していないとしてその改定を求め、会長選任の透明化が迫られました。

大仁邦彌現会長の再任となった2014年の改選では「例外」として従来の理事会一本化推薦を続けたものの、定年の70歳を超えた大仁会長の退任が決まっている今回は、評議会での選挙を行う事になりました。

日本経済新聞 2014年3月29日付(元は共同通信の配信)
「日本サッカー協会、大仁会長が再任」
http://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKG0456_Z20C14A3000000/

最初は代表仲間の二人

そして、今回立候補したのが、五十音順で田嶋幸三副会長と原博美専務理事の二人でした。

以下、二人の経歴を比較しました。似た点も多いのですが、その中にある「違い」が今回の会長選に反映されています。

<表1>二人の候補者の経歴

JFA会長選挙
出典:日本サッカー協会各種リリースより

学年では1年下の田嶋ですが、1976年1月の第54回高校サッカー選手権で浦和南高校主将として全国制覇を達成します(これが最後の関西開催、首都圏に移転した翌年の大会でも浦和南が連覇)。卒業後は筑波大に進み、サッカー界の名門だった古河電工に就職します。

一方、高校選手権には出られなかった原の名前が広く知られたのは、早稲田大に入ってからです。1978年の第2回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでは前年優勝の法政大を倒して優勝し、同年11月には日本代表でも初出場しました。

1979年には筑波の最上級生だった田嶋も代表に入り、1980年6月に中国の広州であった国際サッカー大会では渡辺正監督の下で二人が同時先発しました。初戦の香港代表戦では二人ともゴールを決め勝利しています。

JFA公式内 代表タイムライン
「広州国際サッカー大会」1980年6月9日 日本3-1香港(中国・広州)
http://samuraiblue.jp/timeline/19800609/

しかし、ここから二人の歩みは大きく離れていきます。

「システムの構築者」田嶋幸三の登場

田嶋が代表でプレーしたのは、この広州が最後になりました。同年4月に古河電工へ入社。JSLでもプレーしていた田嶋はわずか3年で退社し、25歳で現役引退を決めました。

新たな進路は当時のスポーツ科学の最先端、西ドイツのケルン体育大学への留学。1986年までここで学び、帰国後は母校の筑波大で体育学で修士号を得ました。以後、立教大で講師から助教授、さらにもう一度筑波に戻って客員助教授と、学術研究の道へ進みました。

田嶋は同時にJFAでの仕事を進めていきます。最初は1994年に強化委員会の副委員長(委員長は加藤久)として、1998年には特任理事兼競技委員として。

そして1999年、大学や社会人を含め、自身でも初めて監督としてU-16日本代表を率いる事になりました。その後フル代表になった藤本淳吾などがいたこのチームはアジア予選を突破し、2001年には矢野貴章らを加えてU-17世界選手権にも参加しました(トリニダード・トバゴ開催、1勝2敗でグループリーグ敗退)。

田嶋はそのままU-19代表監督にも持ち上がり、2002年のアジア選手権を勝ち抜いて翌年のワールドユース出場権を獲得しましたが、技術委員長への就任により大熊清に監督を引き継ぎました(ワールドユースでは川島永嗣、今野泰幸、徳永悠平らが出場)。

2002年、JFAの常務理事兼技術委員長となった田嶋は、サッカー界の強化や対外折衝の中核として活動していきました。2006年のドイツW杯後は専務理事に昇格し、多くの改革を開始します。

田嶋自身が最も強調した業績の一つは、同年4月に開校した中学・高校生年代の育成学校、JFAアカデミー福島(2011年の福島第一原発事故後は静岡県内で活動)の初代スクールマスターです。フランスを例とした6年間全寮制のこのスクールは田嶋の故郷である熊本などを含め全国4カ所に拡大し、特に女子では福島出身の1期生になる菅澤優衣香と山根恵里奈が2015年のカナダW杯準優勝メンバーとなる実績を挙げました。

また、2007年にはAFC(アジアサッカー連盟)競技委員とJOC(日本オリンピック委員会)理事(※2013年からは同常務理事)、2011年にはAFC技術委員長と、JFA以外の組織でも次々と要職を得てきました。

そして、2010年には小倉純二会長の下で副会長(2012年までは専務理事も兼務)となり、2015年に2度目の挑戦で念願のFIFA理事に当選しました。

小倉・大仁の2代6年にわたりJFAのナンバー2として活動した田嶋は、間違いなく現在の日本サッカーのシステムに深く関わってきた「構築者」です。小倉退任時にも後を継ぐかという観測もあった田嶋が今回会長を目指すのは、本人や多くの周囲の人々にとって、いわば当然の流れだったでしょう。

「アジアの核弾頭」原博実の挑戦

一方、1981年に三菱重工へ入社した原は1982年にチームの優勝に貢献し、1985年と1987/88年シーズン(※ともに22試合制)の2度は自身最高の10得点を決めました。

もっと重要だったのは日本代表で、1988年までに75試合で37ゴールを記録しています。これは現在まで、日本代表の得点数で歴代4位です(1位は釜本邦茂の75点、以下三浦知良55点、岡崎慎司47点、JFA発表による)。

当時は日本サッカーがなかなか世界に届かない「冬の時代」でしたが、強烈なヘディングシュートを見せる原は「アジアの核弾頭」という称号を得ました。

代表から遠のいた後、クラブの2部降格と1年での1部復帰(2部でのリーグ得点王が新人の福田正博)、さらに三菱重工から三菱自動車へのチーム移管などを経験した原は、Jリーグの発足を前に三菱が移行した浦和のコーチ就任を要請され、33歳で現役を退きました。

そして1998年、満を持して浦和の監督となり、2ndステージでは3位に入りましたが、翌99年は苦戦。1stステージは最終節の名古屋戦で1-8の大敗を喫すると、監督を解任されました。この時は13位でしたが、結局浦和は年間15位に落ちてJ2降格となります。

その後、テレビ解説者を経て原が監督となったのは、2002年のFC東京でした。

攻撃サッカーを掲げた原によりFC東京は前進し、同年の2ndステージから2005年の1stステージまで6位以内、2004年にはクラブ初タイトルとなるナビスコ杯優勝も達成しました。しかしリーグ制覇はできず、1年挟んで5シーズンの在任期間は2007年で終わりました。

そんな原がJFAに入ったのは、田嶋から15年遅い2009年、技術委員会の強化担当委員長としての就任でした。この時は犬飼会長ですが(ただし犬飼の浦和社長就任は原の解任後)、小倉会長になった後も同職に残り、南アフリカW杯終了後には欧州ルートを使っての代表監督交渉に当たりました。

この時、アルベルト・ザッケローニ新監督の就労ビザが間に合わなかった2010年9月のキリンチャレンジカップでは2試合限定で代表の代行監督を務め、「原ジャパン」として連勝を収めました。

JFA公式内 代表タイムライン
「キリンチャレンジカップ2010」2010年9月4日 日本1-0パラグアイ(日産)
http://samuraiblue.jp/timeline/20100904/

「キリンチャレンジカップ2010」2010年9月7日 日本2-1グアテマラ(長居)
http://samuraiblue.jp/timeline/20100907/

そして、原は2013年12月にJFA専務理事となりました。これは、副会長への専任となった田嶋の後任として前年6月に専務理事となっていた田中道博に体協(日本体育協会)女性職員へのセクハラ問題報道が浮上し(確かに、この問題が浮上した後の2013年6月の月例理事会後にあった田嶋副会長による会見は、W杯出場決定の祝賀ムードが消し飛んだ、とても陰鬱な内容でした)、結局は体調不良を理由に2013年10月に田中が辞任した後、原の選手時代に三菱重工の監督だった大仁会長から抜擢されたものでした。

緊急交代での登場でしたが、2014年のブラジルW杯後にハビエル・アギーレを代表の新監督に決めた後は技術委員長を霜田正浩に譲って専務理事職に専念し、海外出張も多く多忙な田嶋に代わって日本サッカーの実務を取り仕切ってきました。その流れで、恐らく数年前は本人も想定しなかったであろう、JFAトップへの挑戦になりました。

「力点」と「着眼点」の違い

では、二人は一体何を訴えているのでしょう。

日本サッカー協会では、今回の立候補に当たって二人から提出された「活動書類」をホームページ上で公開しました。本編のPDF版への直リンクと、それを要約したフットボールチャンネルの記事が以下のURLにあります。

JFA公式 「役員の選任及び会長の選定について」内
「会長候補者」
http://www.jfa.jp/about_jfa/election/list/

フットボールチャンネル 「JFA新会長はどう決まる?」(既述)内
「日本サッカーをたくましくする。原博実専務理事」
http://www.footballchannel.jp/2015/12/15/post125908/2/

「魅力あるサッカーで世界トップ10を目指す。田嶋幸三副会長」
http://www.footballchannel.jp/2015/12/15/post125908/3/

そして、正式に会長選が告示された2015年1月21日、朝日新聞東京本社内のホールで田嶋と原の二人、そしてJFA理事でもある解説者の北澤豪と元「サッカーマガジン」編集長の大住良之を交えたシンポジウム「協会会長候補と語る『日本サッカーの明日』」が開催されました。

同新聞の潮智史編集委員が司会となり、90分を超えたこの模様は、翌日の朝日新聞に掲載されました。シンポジウムの詳しい内容は、ぜひ同紙で(笑)。

朝日新聞デジタル 2016年1月22日付
「日本サッカー協会会長選告示 田嶋氏と原氏がシンポ参加」
http://www.asahi.com/articles/ASJ1P5QP5J1PUTQP02C.html

「自分が出てきても拍手が少ない、この緊張感は予想していなかった」という北澤のボヤキの後、「何か良く見知った顔がたくさんいますね」という壇上からの冗談で笑いも出た記者席の片隅から見た印象としては、二人ともお互いの主張に賛同する点も多そうだという事です。特に田嶋は、原が話している間に何度もうなずいていました。どちらが会長になっても、お互いの全面否定という事にはならず、日本サッカーの根本的な理念の変更も無さそうです。

ただ、約200億円というスポーツ団体としては突出した規模の予算を使い、人口減少社会の中で2050年に登録者数1000万人を目指すという強気の「JFA2005年宣言」、拡大と試行錯誤が続くJリーグ、アンダー世代での不振がトップにも波及しつつある男子代表と、多くの課題を抱える日本サッカーをどう導いていくのか、その「力点」には明確な差がありました。これは間違いなく、二人の日常活動や経験から来る「着眼点」の違いから来るものでしょう。

改めて整理する、二人の主張

今までの記事やシンポジウムでの発言を元にまとめたのが、次の表2です。

<表2>二人の候補者の主張

JFA会長選挙
出典:各種記事・候補者資料より筆者作成

プレゼン資料での内容充実を含め、日本サッカーの方向性を幅広い観点から見ているのが田嶋です。田嶋はU-22代表の団長としてカタールに帯同し、この告示とシンポジウムが終わってから再び現地に戻っていますが(イラン戦は間に合ったのでしょうか)、特に自分が関わってきたユース年代の育成について強い危機感を持ち、そこの改善を「育成日本の復活」として最も重視しています。また、FIFA理事という立場から世界のサッカーの動向を見られる利点もあります。

一方、原は「Jリーグ」と「地域」という、ファン・サポーターを含めた「サッカーファミリー」のグラスルーツ(草の根)に根ざした視点から改革しようとしています。JFAに登録しなくともサッカーは出来るので市区町村リーグや大学の同好会などで活動しているチームは多くいますが、この選手達にどれだけ魅力的な協会を作っていくか、あるいはJクラブの国際化や地域密着にどう関わるか。これは「代表選手もJ監督も協会スタッフも経験してきた」と自負する、現場で生きてきた原だから言える部分です。

この二人の違いは、JFAアカデミーというエリート育成システムへの熱意にも反映されます。自分が率先して設置し、シンポジウムで大住から出た「まだJ1でめぼしい活躍をした選手がいない」という指摘に対しては「1期生でもまだ22歳だしJリーグの選手自体は多く出ている、女子では(山根や菅澤のような)成果もある」と反論した田嶋に対し、「トレセン制度を含めた見直し」には触れながらも、10代ではアンダー代表にはいなかった長友佑都などの例を出して代表選手育成の多様性を評価する原は大きな反応を見せませんでした。

そんなわけで、まずは二人の候補者の経歴を振り返りながら、その主張の違いを分析してみました。

(その2)では、選挙の意義と問題点について私見を述べた後で、31日の投票はどうなると見るか、そして私はどう考えるかなどを書きます……ああ、また頭が痛くなってきた(苦笑)。