9月24日のDREAMにビビアーノ・フェルナンデスのセコンド、そしてジャッジとして来日していたマット・ヒュームと総武線の各駅停車で、バッタリと顔を合わせた。

大会前夜、後楽園ホールで行われていたプロ修斗を観戦していたマット。来日18年を迎えたといっても、まさかJRで移動をしているとは思いもしなかった。

空席の多い各停で、並んで座った彼は開口一番こう言った。「今日の修斗で戦っていた70キロのファイターたち。エドゥアルド・フォラヤンに勝てると思うか?」

フォラヤンとは、9月3日にシンガポールで旗揚げしたONE FCのメインで勝利したフィリピン人で、散打をベースとしたストライカーだ。翌週には愛弟子のデメトリウス・ジョンソンがドミニク・クルーズの持つUFC世界バンタム級王座に挑むというのに、話題はフィリピン人のフォラヤンになる。そんなところが、いかにもマットらしい。

対戦相手の正面に立ち、思い切り打撃を振るいながらも、組まれても倒れないフォラヤン。レフェリーをしながら、フォラヤンのスタンスや打撃に興味を持ったらしい。

PRIDEではジャッジ、UFCには選手を送り込み、しっかりとビジネスしながら、常にマーシャルアーツとしてのMMAを模索してきた。PRIDEのジャッジをしていたからといって、必要以上のPRIDE礼賛など聞いたことはない(今はよく懐かしがっている)。UFC全盛の今、そのルールに異を唱え、自らがルール・ディレクターを務めたOFCでは、寝技でのヒザ蹴りを復活させている。

かつて英国MMAをリードしたケージレイジでは、ロープを網の目にしたネット・オクタゴンを発案し、安全性を絶賛された。ワシントン州に戻れば、ジェネシスという人材育成大会を主宰するマット。パンクレーションという名を用い、MMA大会を開くようになって、既に17年が経過した。

1966年7月、ブルース・リーがスーパースターへの道を歩み始めた年にシアトルで生を受けたマットは、警察官の父が柔道や武術を習い、モハメッド・アリのファンだったことに影響を受け、少年期からマーシャルアーツに夢中になった。

レスリング、糸東流空手、柔道、ローキック禁止のPKAキック、ボクシングにジークンドー。可能な限り多くのスタイルを学んだ彼は、セントラル・ワシントン大学時代に、既にパウンドを導入したエクストラ・フルコンタクトと命名した総合武術のトレーニングを始めている。

その後、パンクレーションと名を改めた総合武術は、UFCの出現によって、マットの生活の全てとなった。99年にヒザの負傷により志半ばで現役引退を強いられるも、彼のMMAへの思いが枯渇することはなった。マットが現役を退く5年前、世界を放浪中にカークランドのAMCパンクレーションで初めて言葉を交わした僕らは、その後、日本は当然として、米国各地で顔を合わせた。