と、BJは突如、UFCを離れ2003年10月、ホノルルでライト級世界一決定戦という名の下、五味隆典と対戦することになる。

ハワイ島の裕福な家庭に育った彼は、当時、「ライト級のトップはUFCでなく日本マット」という声を受け、実兄がプロモートするランブル・オン・ザ・ロック(以下、ROTR)で、この1戦を実現させた。そして、あの五味を相手に打撃戦、テイクダウン、寝技と全ての局面で圧倒し、3R2分35秒チョークで一本勝ちを収めたのだ。

その3カ月後、UFCに舞い戻ったBJはライト級世界一の称号を胸にウェルター級に転向。マット・ヒューズを、これもチョークで下し、UFC世界ウェルター級王座を獲得する。天才の名を欲しいままにしたBJは、直後にその天才ゆえの決断、UFC離脱を決意する。

ズッファ体制となり、成長過程にあったUFCだが、MMAビジネスの中心は日本。ファイトマネー、知名度ともに、BJはUFCの現状に我慢できる状態にはなかった。それだけでなくライト級&ウェルター級で最強のライバルから一本勝ちを奪った彼は、「無差別、ヘビー級で世界一を証明する」ことに照準を合わせていた。

HERO'Sの前身K-1 ROMANEXで初来日を果たすと、地元ROTRでホドリゴ・グレイシーを下し、まずはグレイシー超えを達成。しかし、ヘビー級挑戦という夢は、HERO'Sのリングで当時無名に近い存在だったリョート・マチダに敗れ、断念。地元での再起戦で、ヘンゾ・グレイシーを下し、BJはUFC復帰を決意する。

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