【山口組分裂「10年抗争」秘録】100周年のメモリアルイヤーでの分裂 怪文書、身内殺し、怨嗟とペラと録音データ…井上組長が「もう構えている」と覚悟を決めるまで
山口組分裂は、すべての人にとって青天の霹靂だった。ヤクザ社会からの永久追放を意味する絶縁となったのが5組長。破門となったのが8組長。暴力団社会特有の心理戦と情報線が繰り広げられた分裂劇について、誰よりも間近で山口組を見てきたライター、鈴木智彦氏が綴る。【第5回・前後編の前編】
【写真】周囲もピリピリ 5年4か月の服役を終え、府中刑務所から出所した山口組の司忍六代目組長
100周年の夏に配布された怪文書
2015年夏、山口組は100周年のメモリアル・イヤーに突如として分裂した。
ヤクザには博奕を主な資金源にしていた頃から、賭場の客が枯れる8月を夏休みとする慣習がある。山口組も夏場は月1度の定例会を開かず夏期休暇としていた。8月の神戸を訪れる幹部はほとんどいない。秘密裏に動くには都合がいい。虚を突いた離反劇だ。
不穏な噂は怪文書からはじまった。
「直参10数人の連名で、六代目体制への批判と脱退宣言が書いてある。関西一帯に配布されたらしい」(稲川会の二次団体幹部。横浜)
情報を掴んだ山口組執行部はただちに調査に乗り出したという。ところがいくら探しても怪文書が見つからない。
ガセの可能性は充分あった。
噂で終わることもよくあるが、秘密の暴露を偽装して情報攪乱を行なう紙爆弾は山口組の十八番だ。当時も内部がガタつくたび、傘下組織や友好団体、マスコミに告発文が送られていた。分裂の1年前にも、司忍組長や高山清司若頭を批判する文書が新聞社やテレビ局にFAXされている。
「現在の山口組のトップから直系組長まで詐欺師、ペテン師、ブローカーに成り下がってしまった」(該当する怪文書より抜粋)
匿名で一方的な誹謗中傷を送りつけながら、他人をペテン師呼ばわりする。怪文書は大げさで非論理的なため、通常、マスコミはまともに取り上げない。だが今回は、2008年10月の後藤組・後藤忠正組長の除籍問題を契機に、直参13人が雑貨販売や不正会計を糾弾した連判状に近い信憑性の高いものと噂された。この騒動では直参10人が謹慎・破門・絶縁、7人が引退する大量処分に発展している。噂が本当なら再び大量処分が起きる。見過ごすわけにはいかなかった。
ただし山口組は混乱していた。
「怪文書の首謀者のひとりに井上さん(山口組若頭補佐・山健組四代目・井上邦雄組長)の名前があったらしい。これまでどれだけ惨い仕打ちを受けても耐え、謀反の嫌疑がかかった際には自分の組織の幹部まで惨殺した山健組が、いまさら山口組を出て行くだろうか」(山口組直参組長)
山健組が身内殺しを決行したのは2007年5月31日夕刻である。神戸市中央区の路上で、山健組の名古屋勢力である多三郎一家・後藤一男総長を刺殺したのだ。実行犯は山健組健國会の組員で、数十人規模の逮捕者が出た。現場指揮官は18年間逃亡を続け、昨年10月に逮捕されている。
殺害を指示した健國会の山本國春会長も2010年に検挙された。一審は無罪だったが、2014年の二審で懲役20年の逆転有罪となった。杜撰ではあっても、組織的、計画的な犯行だった。
身内殺しに至る経緯はこうである。
2006年に六代目山口組が発足した直後から、山健組には弘道会がクーデターによって山健組出身の山口組五代目・渡辺芳則組長を引きずり下ろしたという怨嗟が鬱積していた。
「旗を取り戻さねばならん……実際に実行できるかはさておき、井上さんや妹尾(英幸。当時若頭)、多三郎の後藤(当時舎弟頭)のトップ3人あたりでああだこうだ話していた。後藤さんはそれを信用していた相手に電話で喋り録音を取られた。誘導されているし、よくいえば昔気質、悪くいえば思慮が足りないから、『山健組の覇権を取り戻す。そのためには高山若頭を殺さねばならない』とペラ(舌)を回した」(亡くなった山健組の元幹部)
録音データは山健組に恨みを持つ人間を経由して弘道会に手渡された。当然、井上組長は説明を要求される。元幹部が続ける。
「この時、健國(山本会長)が言うには、井上さんはテンパってしまい判断能力がなかったらしい。お白洲に引きずり出されたら山健組が終わる。だから健國は独断で後藤さんの殺害を実行した。数日しか準備期間がなく、短時間で殺害計画を練ったから杜撰な犯行となり、多くの逮捕者を出した」(同)
井上組長は自らの手を汚し、窮地を救ってくれた山本会長について、「どんな手を使っても刑務所には行かせない」と公言していたという。その言葉通り、懲役20年が確定した直後、大阪高検からの問い合わせを受けた医師が「刑務所への収監には耐えられない」と回答した。診断したのは天皇陛下(現上皇陛下)の冠動脈バイパス手術を成功させた天才外科医・天野篤教授だった。
結果、収監は見送られ、山本会長は死亡するまで娑婆での生活を続けた。
山口組バブルが到来
怪文書には、六代目発足時から組運営の中枢にいた宅見組・入江禎組長(当時、舎弟頭)の名もあったという。これも山口組をよりいっそう混乱させた。警察は入江組長を「弘道会と一心同体」と見ていた。五代目を放逐した弘道会一派のクーデターが、入江組長の親分である宅見勝・五代目山口組若頭の殺害に端を発していたからだ。
弘道会はここでも録音を武器にし、渡辺五代目が宅見若頭殺害を了承していたというエビデンスを突き付けた。
「宅見組の入江組長に『親の敵をとれ』とハッパをかけ、五代目に『引退すれば命まではとらない』と強引に詰めよる。五代目は言葉を返せず引退が決まった。詰め将棋の場には井上さんもいて、親分への無礼に抗議したという。でも当時の井上さんは直参じゃない。『枝のモンは黙っとれ』と一蹴されて終わりだ」(同)
弘道会のアシストによって親の敵に一矢報いた入江組長と、宅見若頭を殺した山健一派のトップが呉越同舟するはずない、という見立てである。
山健組、宅見組とも組織力は折り紙付きで、離脱すれば山口組は大打撃を受ける。噂は全国の暴力団に拡散し、見つからない怪文書の存在自体はもはや問題にされなかった。実話誌の山口組番記者に分裂危機が伝わったのはちょうどこの頃、具体的には8月23日前後である。
実話系週刊誌は山口組分裂を確定しようと躍起になっていた。30日の大安吉日、離脱した組長たちが淡路の侠友会本部で盃直しを行なうとの情報もあった。編集部が記者を向かわせると、侠友会本部の塀の上に有刺鉄線が巻かれ要塞化されていたという。写真を見た某誌編集長は「分裂は間違いないと確信した」と話す。
8月27日、山口組はついに緊急執行部会を招集した。信頼できる刑事に電話しても中々繋がらなかった。
「電話を切るとすぐ着信がある。『(分裂が)イエスかノーかでいえばイエス。じゃあまた』と電話を切るのだが、またすぐベルがなる。コアなメンバーに連絡したくても電話が鳴り止まない。2台の携帯を電源に繋ぎながら喋りっぱなしだった」(マル暴の刑事)
名前が挙がっていた井上組長、入江組長らは姿を見せず、離反はほぼ確定と思われた。名古屋にいる司六代目の判断を仰ぐため、橋本弘文統括委員長と大原宏延本部長が新幹線で名古屋入りし、神戸へとんぼ返りした。山口組は迅速に処分を発表する。友好団体に発送された破門・絶縁状も27日付だ。
ヤクザ社会からの永久追放を意味する絶縁となったのは、宅見組・入江禎、山健組・井上邦雄、正木組・正木年男、池田組・池田孝志、侠友会・寺岡修の5組長である。破門は、黒誠会・剣柾和、真鍋組・池田幸司、西脇組・宮下和美、松下組・岡本久男、雄成会・高橋久雄、大志会・清崎達也、奥浦組・奥浦清司、毛利組・毛利善長の8組長だった。
山口組分裂がほぼ確定した27日は木曜日だったので、当時、水曜校了の『週刊大衆』は触りの記事しか載せられなかった。最初に大特集を組んだのは土曜校了の『アサヒ芸能』で、月曜校了の『週刊実話』も11ページの大特集を掲載した。どの雑誌も前週比で実売が倍になった。立ち読みで潰れる分を差し引くとほぼ完売御礼で、実話誌に山口組バブルが到来した。
弘道会周辺の動きをつぶさに見ていると、分裂劇は青天の霹靂だったのだろうと推測できる。理由は複数ある。
ひとつめは、弘道会と昵懇だった警視庁のK刑事が、マスコミからの問い合わせに「分裂はない」と答えていたことだ。弘道会と深い関係にあった刑事の見立ては、すなわち弘道会の見解とも考えられる。今回、改めて警察筋を取材すると、K刑事は司組長の出所時に弘道会へ対応して以来、竹内照明会長に目を掛けられるようになったという。
ふたつめは分裂前夜、司組長が北海道にいたという証言だ。山口組のような巨大組のトップは象徴的存在で、実務には直接タッチしない。とはいえ分裂の兆候を察知していれば、北海道で避暑とはいかないだろう。
確定的な理由は、弘道会トップである竹内会長の電話応対だった。
高山若頭は府中刑務所に収監中のため、名古屋を本拠とする弘道会系列の前線指揮官は竹内会長となる。警察がクーデターを察知して竹内会長に電話をすると、「それはない。分裂はしない」と信じてもらえなかったという。
「直後、携帯の番号を変えていたのは正木組長1人だったが、首謀者たちは全員、携帯を切っていて連絡が付かない。竹内さんには分裂を裏付ける証拠がなかった。不平不満があるのは百も承知だが、まさかと思っていたようだ」(警察関係者。以降、所属は伏せる)
腹をくくって分裂したのだから、離脱した組長たちが弘道会側からの連絡に応じるはずもない。ただ井上組長は、近しい人には特段秘匿するつもりはなかったようだ。
「井上組長は親しい人間から問い合わせがあると、『もう構えている。好きに伝えてくれ』と答えていたらしい」(同)
暴力団の言う「構えている」は、当然、暴力的な衝突を想定している。有り体にいえば、喧嘩支度を整え、相手に銃口を向けているという意味だ。意訳すれば「来るならいつでも来い」となろう。
強気の理由は盃にあった。処分された組長たちは、破門・絶縁状が送付される前に新たな盃を結んでいた。会場は神戸市鈴蘭台の井上組長宅だったという。日程を前倒ししたという証言もある。我々は自らの意志で三行半を突き付け、縁切りしたのだと強調したかったのかもしれない。
通常、暴力団組織は盃の空白期に分裂するのがセオリーである。トップが死亡・引退し、次の当代が跡目を継ぐ前だ。山一抗争でも離脱派は竹中正久組長の盃を受けずに脱退した。
弘道会の油断もそこにあった。
暴力団は「親分は絶対」という掟を信奉する。盃をもらった以上、どれほど冷遇されても堪え忍ぶしかない。盃を飲ませ、絶対に逆らえない状況を作った以上、まさか居直って出て行くとは思わなかったのだろう。
(第5回・後編に続く)
【プロフィール】
鈴木智彦(すずき・ともひこ)/1966年、北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科除籍。ヤクザ専門誌『実話時代』編集部に入社。『実話時代BULL』編集長を務めた後、フリーに。主な著書に『サカナとヤクザ』『ヤクザときどきピアノ』など。
※週刊ポスト2026年9月18日号
