2000年代に一世を風靡した女性誌『CanCam』。山田優、蛯原友里、押切もえなど錚々たるモデルたちを輩出した同誌で、「小悪魔マッキー」という愛称で表紙を飾り続けていたのが西山茉希(40)。

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『CanCam』卒業後はタレントとしても活躍、そして結婚、出産。現在はシングルマザーとして2人の子育てに奮闘する。新潟県長岡出身のバレーボール少女は、いかにして人気モデルとなったのか。『CanCam』前夜、工場夜勤油まみれの日々。(全3回の1回目/2回目につづく)


西山茉希さん ©深野未季/文藝春秋

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活発でじゃじゃ馬な女の子だった子ども時代

--西山さんはどんな子ども時代を過ごされていたんですか?

西山茉希さん(以下、西山) 活発な子どもだったと思います。最初はすごくシャイで照れ屋さんなタイプから始まって、そこから活発でじゃじゃ馬な女の子になって、だけど肥満児で……っていう感じで、両方を兼ね備えていて。どっちが本当の私だったんだろうっていうのは、振り返っても正直分からないんです。

--どちらも自分の中にあったと。

西山 幼少期から物心つくまでにすごく影響を受けてたのが、ちっちゃい頃から一緒に生活するぐらい共に過ごしていた従兄弟だったんですよね。

 祖母の本屋さんの中で、毎日お留守番みたいに過ごしていたので、そのお兄ちゃんたちの影響がすごく大きいんです。冒険とか、戦いごっことか。

 私は女の子だから、囚われたお姫様役で押入れの中でずっと待つ、みたいな。男の子の環境で育ったけど女の子としても扱われているから、いまだに私の心の中にはすごく少女のままの自分がいたりする、両極端な自分がいるんですよ。

 でも、きっと表面に出ているのは、そのお兄ちゃんたちの影響を受けたほうの活発な自分なんでしょうね。

--「私も戦いたい!」とはならなかったですか?

西山 これが「まきちゃん行け」って言われると、私も参戦するようなお姫様で。大事にされすぎることはないというか(笑)。

「とにかく食べることが大好きで…」子どもの頃に“肥満児”だったワケ

--肥満児だったというのも今のお姿からは全然想像がつかない。

西山 小学校5年生のとき、お兄ちゃんたちがやっていたバレーボールをやってみろって言われて、少年団に入ったんです。でも当時は、年に1回の成長記録に赤字で「肥満度何パーセント」って出るくらいでした。

 スポーツにはまったく興味を持たず、遊ぶといったら放課後にお兄ちゃんたちと冒険したりチャリンコに乗ったりするくらいで、それが全然食べる量と釣り合っていなかったんでしょうね。

 とにかく食べることが大好きで、肥満っていう考えもなかったので、自然に仕上がった状態が肥満児だった、という感じです。

--食べるのが好きだったんですね。

西山 好きでした。おばあちゃんのお部屋にいたら、和菓子とか昔ながらのお菓子をずっと出してくれるんです。永遠にあるんですよ(笑)。

 おうちでお留守番している日も、なんかしら食べ物を見つけて、今思えばこれは太るよねっていうものばかり食べていました。ロールパンの中にポテトチップスを挟んで食べたり、マヨネーズパン、マヨネーズトースト、たらこマヨネーズご飯とか。

--ギルティなメニューだ……。

西山 ほんと太るものが大好きだったんです。自分でアレンジして食べる工夫は、もうその頃からありました。

「自分がどんどん太っていることにも気づかず…」学生時代は1日7食だった

--一番食べていたのはいつ頃でしたか?

西山 多分、高校生のときですね(笑)。1日7食食べてました。中学3年間でバレーボールをやりきって、やっと離れて、女の子らしい高校生活をしたいと思ったんですけど、食欲だけは変わらなかった。

 お弁当はあっという間になくなるし、購買でパンを買って食べるのも楽しいし、放課後はみんなでサイゼリヤに行って290円のミラノ風ドリアを食べるのがルーティーン。

 バレーボールでついた筋肉の上に脂肪が乗っかった状態で、高校の同級生の中でも「かわいい女の子」ではなく「おい西山ぁ!」って呼ばれるようなタイプだったので、自分がどんどん太っていることにも気づかずにいました。

「いちばん戻りたくない過去は中学のバレー部時代」

--中学時代のバレーボールはそれくらいストイックだったんですね。

西山 小5で入った少年団が市内でも強豪と言われるようなチームで、そのチームがそのまま中学に引き継がれて……という感じだったんですけど、一方の私は全然体も動けないし、メイン選手にもなれない。本当にしんどかったんですけど、なぜかやめなかった。

--なぜ続けられたんですか?

西山 6年生のときにチームメイトと仲良くなれたのが嬉しくて。それまでずっと、従兄弟や兄弟とばかり過ごしていたので、女の子同士で仲良くなる感覚が怖くて、入っていけないものだと思っていたんです。それが、バレーボールを通してお友達ができて、だんだんバレーもできるようになって。

--だから厳しい練習にも耐えられた。

西山 ほんと、いちばん戻りたくない過去は中学のバレー部時代(笑)。今でも夢に見るんですよ。監督に怒られる夢、サーブレシーブが全部飛んでいっちゃう夢、サーブがネットに引っかかる夢。私の中では相当だったんだと思います。

 親も「自分の子じゃないと思わなかったらやっていけなかった」って言うほどの生活でした。漫画に出てくるような薄いサングラスをかけた鬼監督で。

--もはやトラウマレベル。

西山 その日しごかれるターゲットになりたくない、と毎日考えてましたね。でも絶対自分の番って来るんですよ、調子が悪い日もあれば、無意識に気が抜けているときもある。

 だから、見られていなくても監督がどこかで聞いているかもしれないとか、私生活がプレーに影響してくるとか、そういう教えでした。親以外から人生を学ばせてもらったとしたら、あの監督だったと思います。

高校の家政科進学で一変、先輩のファッションに憧れて

--高校でバレーを続けなかったのはなぜですか?

西山 中学3年間でやりきって、これ以上進んだらバレーしかない人生になるなと思ったんです。今バレーが好きなまま降りて、違う人生をやってみようと思って、高校進学のタイミングで区切りをつけました。

--高校生になって違う人生が始まった。

西山 中学3年生まではジャージか体操着かユニフォームか、髪型の選択肢すらないような生活だったので、ファッションに興味を持つ余裕なんてまったくなくて。

 それが高校で家政科に入ったら、私服校で、女子クラスで、とにかくファッションが個性的な先輩たちが溢れている学校でした。いろんなジャンルの先輩を見て、今度はそっちに憧れるようになるんです。

 お金があるわけじゃないから全部古着とか安いものなんだけど、組み合わせ方や髪型で、自分も毎日違う格好をするようになって。ギャルの日もあれば古着でストリート系のときもあれば、B系のときもある。いろんな楽しみ方をしたのが高校生活でしたね。

「夢を見つけられなかった」高校卒業後に感じていた“孤独感”

--芸能の仕事への意識はありましたか?

西山 まったく。実家の本屋さんに毎月届く『CanCam』や『JJ』を、夜、紐をほどいて母たちと店頭に並べてましたけど、私にとってはそれはお手伝いの延長で、女性誌も『週刊少年ジャンプ』や『コミックボンボン』や『コロコロコミック』と一緒くたなんですよ。だから、その中の人になるなんて考えたことすらなかった。

 新潟の、私たちの街でそんなことができるものだとも思っていなかったし、職業としてあるとも思っていなかったです。もう完成された雑誌だから、自分の人生とリンクするなんて発想自体がなかったんですよね。

--将来の夢は、当時どんなふうに考えていたんですか。

西山 それが、私、夢を見つけられなかったんです。家政科ってうっすら管理栄養士や保育士になりたい子が入ってくるような場所なんですけど、私はそれでもなくて。みんながどんどん夢を明確にしていく中で、なんでみんな人生で夢を見つけられるんだろう、というクエスチョンだけがどんどん大きくなっていって。

 進路相談で先生と話すときも、先生も私に何もないのが分かっているから話にならないんです。夢って何? なんで持ってなきゃいけないの? みんないつ見つけたの? みたいな。

 かといって大学や短大に行くにも学力が足りないのは分かっているし、せめて興味があるものは、というのもよく聞かれたけど、それすら分からなかった。

 ただ、卒業が近づいてくる中で明確だったのは、何かしらの学校に行けば学費がかかる、でも本気の思いがないのにお金だけかける生活をするのはすごく失礼だな、ということでした。だからとりあえず何かが見つかるまでバイトを掛け持ちしてお金だけ稼ぐ生活にしよう、というところに着地して卒業したんです。

--いつか何か見つかるかもしれないと。

西山 でもキツかった。みんな新生活が始まって、ゴールデンウィークや夏休みに再会すると、それぞれ新しいことを始めていて、しんどい、つらいって話をするんです。

 でもそれは、夢を追いかけている子たちが新しいことをやったから感じられるしんどさで、私は何もない、変わっていないから話せることがない。すごい孤独感でした。

「油まみれの匂いをつけながらやってました」せんべい工場のバイトで深夜2時出勤の生活

--バイトはどんなことをされていたんですか。

西山 派遣会社に登録して、いろいろやりました。夜中のせんべい工場、無印良品の仕分け、工業施設の部品集め、セブン・イレブン、ちゃんこ屋、駅前のビラ配り。

--すごい! 根性ある!

西山 せんべい工場は夜中2時出勤の朝8時までという深夜帯で、もう朝ごはん食べたくなくなるくらい油まみれの匂いをつけながらやってました。

 私がやっていた派遣の仕事って、全部、商品として売られる前の、原点の作業なんですよね。でもそのときに学んだんですよ。私たちは完成品しか知らないけど、その裏側には普通の人が寝ている時間に動いてくれている人がいて、ようやく出来上がっているものなんだなって。

 だからあの時間も無駄ではなかったなと今は思えていますし、表で1位を取っているものがすべての1位じゃないっていう考え方になれたのも、あのときの経験の名残です。

--ファッション誌の1ページを作り上げるのに、こんなたくさんの人が関わっているんだとか。

西山 そういうことです!

スカウトされたけれど…プライドを刺激された一言

--モデルのスカウトを受けたきっかけはなんだったのでしょうか。

西山 短大に進学するお友達に付いて行った東京で、迷子になっているときにスカウトを受けたんです。話は持ち帰ったんですけど、正直やる気はなくて。連絡先を交換すればその人から逃れられると思って交換しただけ。

 でも当時の私は関心がなかったので、連絡が来てもどうでもいいや、という感覚でした。そこから意思決定までに半年、1年弱かかったと思います。バイトしながら東京に通いで月1回の撮影をしているうちに、中越震災があって、それが完全に上京するきっかけになりました。

--決断するまでに、迷いがあった。

西山 私、1つ選んだら3年は絶対に続けると、勝手に自分の中で決めているところがあって、その覚悟があるものじゃないと踏み込めないって思ってました。でもスカウトしてくださった方に「飛び込んでもいないのに決めつけるんだね」と言われて。子どもっぽいと言われたような感覚がありました。

 そこには、バレーボールのトラウマがまだあって、何かに飛び込むことがもう怖かったんですよね。もう1回踏み込んだ先で、またしんどいことがあったらどうしよう、と。

 でも、その一言でプライドが刺激されて、確かに言っているとおりだな、と思って。やってみて無理だったら辞めればいい、逃げ道もあると思って、やってみますと決めたんです。

撮影=深野未季/文藝春秋

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