T. Etoh

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エルヴァという社名を聞き慣れない人は多いだろう。もし60年代にスロットカーで遊んだ経験の持ち主なら、その名はマクラーレン・エルヴァとして記憶にとどまっている人がいるかもしれない。

【画像】フランク・ニコラスが創業したエルヴァ社のレーシングスポーツモデル、Mk7(写真8点)

本題であるMk7に辿り着く前に、エルヴァについて話をしたい。創業者はフランク・ニコラスという。彼は1955年当時、イースト・サセックス州ベクスヒル・オン・シーのロンドン・ロードという場所で、小さなガレージを営んでいた。この地が後にエルヴァ・エンジニアリングへと発展するのである。当初は車の部品を開発製造していた。

その後、車の製造にコマを進めるのだが、オリジナルモデルは、近隣のヘイスティングスという場所で、マイク・チャップマンという男が製造していた、CSMというモデルをベースに独自の改造を加えたモデルだった。ニコラス自身がこれでヒルクライムなどに参戦して成果をあげると、需要はそれなりに高まった。こうして1955年、エルヴァと名付けられたモデルが世に出るのである。エルヴァMk1と名付けられたモデルは、その後年次改良が行われながら、1958年にはMk4にまで発展する。この頃、北米市場でエルヴァの販売を手掛けたのは、今やF1にも手を広げたアメリカのレーシングチーム、ハースを率いるカール・ハースであった。

イギリス・バックヤードビルダーの例に漏れず、ニコラスもロードカーの製作に手を染めた。ロードカーといっても、あくまでそれがレースにも使えることが前提だったが、1958年に制作されたクーリエの名を持つモデルは、小さな会社にとって拡張を迫られるに十分なオーダーを受けた。だが、アメリカの代理店(ハースではない)が、代金を支払わなかったことで、エルヴァは資金難に見舞われる。結局エルヴァ・エンジニアリングは清算の憂き目にあうのだが、したたかなフランク・ニコラスは、1961年に再びエルヴァ・カーズを立ち上げ、イースト・サセックス州ライに小規模な工場を建設し、そこからレーシングカーを生み出していったのである。

1965年には大規模な生産設備を持たないマクラーレンから同社の最新鋭マシン、M1の製作委託を受け、このマシンをエルヴァが生産したことから、マクラーレン・エルヴァの名がついた。もっとも正式にはM1と呼ばれる。

フランク・ニコラスはライの工場で、エポックなモデルを作り上げている。Mk7登場前夜のモデル、Mk6は、いわゆるレイダウンタイプと呼ばれる、超低重心モデルの先駆けともいえるモデルで、工場を作り上げた1961年末に完成、その年12月、ブランズハッチでデビューを飾った。そして1962年シーズンを通じて、大活躍したマシンである。しかもヨーロッパのみならず、アメリカでも活躍し、エルヴァの名を高めるのに大いに貢献したモデルだが、ライバルも黙ってはおらず、ロータスは1962年シーズンから23を投入してきた。当初はエルヴァMk6には及ばなかったものの、後半からはその実力を発揮して、エルヴァはMk6ではロータス23に勝てなくなっていた。こうして、対ロータス23対策ともいえるMk7が、1963年シーズンから投入された。1962年末には完成されていたMkは、ライバル、ロータス23にスタイルまで似ていた。