「母は他殺を信じて疑わなかった」…国鉄の初代総裁が轢死体となった「下山事件」 息子たちが明かしていた“沈黙を貫いた母の真意”【昭和の未解決事件】
【写真】目撃者探しに用いた「下山総裁」の写真 遺体発見現場を捜索する警察、ダミーの人形で実験する姿も
下山氏の子息4人の証言
第2回【「殺されたに違いない」「刑事とケンカもした」…「下山事件」国鉄総裁を失踪現場で降ろした「専属運転手」21年目の告白】を読む
1982(昭和57)年9月14日、昭和史に残る未解決事件で“渦中の人”となった女性が死去した。下山よしさん、享年77。1949(昭和24)年7月5日、国鉄常磐線のレール上で轢死体となって発見された当時の国鉄総裁、下山定則氏(47)の妻である。
いまだ「自殺」「他殺」が議論されるこの事件について、「週刊新潮」は何度か関係者の証言を報じていた。下山氏とは東大の同期で、事件当時の警視総監だった人物が登場する第1回、下山氏を三越まで送った専属運転手が激白する第2回に続き、今回は下山氏の子息4人が父の素顔や沈黙を貫いた母の真意を明かす。

(以下、「週刊新潮」1982年9月30日号「墓碑銘」を再編集しました)
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続く「自殺・他殺論争」
戦後まもない1949(昭和24)年。7月6日付の朝刊は、「下山国鉄総裁、消息を絶つ」との大きな見出しを掲げた。そして、同日、下山定則氏は東京・五反野の国鉄常磐線のレール上で、轢死体となって発見された。世にいう「下山事件」である。
しかし、下山総裁の死が自殺か他殺か、見方は真っ二つに分かれた。遺体は解剖され、東大の古畑種基教授が「列車にひかれた時にはすでに死んでいた」と他殺を裏付ける鑑定結果を出したのに対し、慶大の中館久平教授は、「生体轢断である」と正反対の結論を出した。
法医学界だけではない。捜査に当たった警視庁捜査一課は自殺説、二課と地検は他殺説をとり、新聞も「自殺の毎日」と「他殺の朝日」に二分された。
事件後も、松本清張氏が「占領軍による謀殺説」を唱えるなど、米軍占領時代に起きたナゾの事件として、今日に至るまで「自殺・他殺論争」が続いているのである。
沈黙を守った妻
「下山事件」から33年。そうした中にあった1982(昭和57)年9月14日、総裁の妻・下山よしさんが心不全のため77歳で死去した。渦中の人でありながら事件については固く沈黙を守り、一切、公的な発言をしなかった。
よしさんの父親は福井県の士族。上京して福沢諭吉の門下生となり、実業界に転じた。よしさんは森村小学校から香蘭高等女学校に進み、1926(大正15)年、下山氏と結婚する。よしさんの姉と下山氏の兄が夫婦という関係で知り合い、「道を歩く時に、必ず自動車が通る側に入れ替わって歩いてくれる」やさしさに魅かれたという。
神戸生まれの下山氏は、東大卒業後、鉄道省に入省。終戦後、東京鉄道局長を経て運輸次官になり、1949(昭和24)年、初代の国鉄総裁に就任した。亡くなるわずか1ヵ月前のことである。
総裁の最も身近にいた夫人と家族は、その死をどのように考えていたのか。夫人同様、公的発言を控えてきた4人の子息が、当時の心境を明らかにしてくれた。
「来るべきものが来たな」
「オヤジは“これからは自動車だ。鉄道の時代じゃない”といってましたが、請われて引き受けざるをえなくなった」
と、長男の定彦さんはいう。当時、国民生活は依然、窮乏のどん底にあり、加えて、国鉄では10万人の首切りが予定され、不穏な空気が漂っていた。
「警察は周囲の情勢をひんぱんに伝えてくるし、オフクロは、“えらいものを引き受けた”と危機感を持ってましたね」
と回想するのは次男の俊次さん。
「だから、事件が起こった時、来るべきものが来たな、という考えが頭のどこかにありました」
ただし、巷間、伝えられた悲愴感などはなかった、と三男の健三さんはいう。
「国鉄への愛着と首切りの板ばさみで悲愴感が漂う、との感じでとらえられすぎてます。オヤジは機関区長など現場経験が長いので、現場の人間を説得する自信をかなり持ってました」
他殺を信じて疑わなかった
事件の報を聞いた時、よしさんは歯を食いしばりながら、じっと黙っていた。
「母はグチをいわない人で、事件についても、いいたいことがたくさんあったろうと思うのですが、以後も全く話さなかった」(四男の博也さん)
定彦さんが後を続ける。
「何か話して息子たちの将来に差しさわりがあったら困ると発言を控えてきたんです。事件については、他殺を信じて疑わなかった。誰が殺したかはわからないにしろ、自殺ではない。オヤジが、自分の引き受けた職務を自ら放棄することはありえないと考えてました。ただ、オフクロは、なぜ事件が他殺とはっきりしないのか残念で仕方がないといってましたね」
事件後の生きがいは子供
「下山事件」以後のよしさんは、残された4人の息子のために生き抜いたといってもよいかもしれない。
総裁の不慮の死で、下山家には「現金もなければ株券もなかった」。唯一の財産だった洗足池(大田区)の自宅も手放し、当時のわずかな退職金と年金、そして、遺族援助基金がその後の苦しい生活を支えた。奨学金やアルバイトで息子4人が大学を卒業し、就職、結婚したのを何よりも喜んでいたという。
とにかく、生きがいは子供で、自分の楽しみといえば、俳句と旅行ぐらい。よしさんの親しい友人は最後にこう語った。
「“自分がくじけたらダメだ、と自分を励ましてがんばってきた”とよくいってました。息子さんのひとりは、就職試験の時に“尊敬する人は”と聞かれて、“母です”と答えたそうです。なかなかいえないことですよ」
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「私がいうのは、自殺、他殺は五分五分だなあ」――第1回【いまも検証が続く「下山事件」、大学同期の元警視総監が語った“ただならぬ挙動”とは】では、事件の前々日に目撃された下山氏の様子などを伝えている。
デイリー新潮編集部
