『豊臣兄弟!』賤ヶ岳の戦いで柴田勝家についた3人の運命、ドラマで「裏切り者」とされた中川清秀の意外な史実

岐阜市歴史博物館が所蔵し、特別展で展示している「賤ヶ岳の戦い」を描いたびょうぶ(写真:共同通信社)
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第32回「賤ヶ岳(しずがたけ)の決闘」では、秀吉は織田信長の次男・信雄を味方にしながら、信孝との戦に圧勝。柴田勝家の軍勢と賤ヶ岳で対峙することになるが……。今回の放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
賤ヶ岳の戦い、柴田勝家についた家臣たちの運命とは?
「信孝様はあたかもご自分が三法師様の名代であるがごとき振る舞いをなさっている。たとえ織田家の御仁であろうとも容赦はせん。正義は我らにある。これより岐阜に向けて出陣いたします」
今回の放送は、そんな秀吉の言葉で幕が開けた。秀吉は、清須会議後に柴田勝家の領地となっていた長浜を取り戻すと、三法師を留め置く信孝(織田信長の三男)のいる岐阜城に軍勢を差し向ける。信孝としては、清須会議後に手を結んだ勝家の援護に期待したいところだったが、勝家が本拠とする越前は雪で閉ざされている。
ドラマでは「肝心のときに役に立たぬやつめ」と唇を噛む信孝の姿があったが、信長の妹・市が勝家に「我らの忠告も聞かず、先走ったのは信孝じゃ」と言っているように、自らの判断ミスが招いた結果だろう。
信孝を追い落とすにあたって、秀吉は信雄(信長の次男)を擁立。一時的に信孝が敗者に、信雄が勝者になったが、いずれ信雄は秀吉と対立し、家康側につくことになる。『豊臣兄弟!』では、松下洸平が演じる家康がやたらと腹黒くて話題だが、まもなく再登場となることだろう。
歴史の表舞台に華々しく現れる者もあれば、静かに立ち去る者もいる。後者を「敗者」とするならば、敗者側の物語も大河ドラマでは描かれやすいと、前回の記事【大河ドラマ『豊臣兄弟!』織田信孝、市、柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか、「敗者」から見える天下人の強さ】で書いた。1年を通じて特定の歴史人物とその時代にクローズアップするからだ。
今回の放送では、秀吉と勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」が描かれ、敗者となった人物も数多く登場した。柴田勝家や前田利家についてはこれまでこの連載で書いてきたが、勝家側についた重臣のバックグラウンドや、行く末が気になった人もいることだろう。1人ずつ解説していこう。
柴田勝家を名乗り、主君を逃がしたと伝わる毛受勝照
ドラマでは、柴田勝家が秀吉と激突するにあたり、家臣を集めて決起集会を開催。「英気を養い、決戦に備えるのじゃ」と鼓舞する勝家に、いち早く「殿、ありがとうございまする!」と応じたのが、中山義紘演じる毛受勝照(めんじゅ かつてる)だ。
毛受氏は尾張・新居城主だった水野良春の子孫と伝わる家柄で、勝照は12歳の頃から柴田勝家の小姓として仕えたとされている。
天正2(1574)年、17歳で伊勢長島攻めに従軍した際、一向一揆勢に奪われた勝家の馬印を奪還する武功を挙げた。勝家はこれを大いに喜んで自身の名から「勝」の一字を与え、以後「勝照」(勝助とも)と名乗らせたという。
勝家からの信頼が厚かった近習の1人だが、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いで、命を落とす。
といっても、ただ討ち死にしたわけではない。賤ヶ岳の戦いでは、再挙兵した信孝を討つべく美濃の大垣城に入っていた秀吉が、その日のうちに戦場近くまで戻ることに成功。秀吉は大垣から近江の戦場まで約50キロの道のりを急速に引き返した。後世、「美濃大返し」と呼ばれる迅速な軍勢移動である。
この「美濃大返し」により柴田勢が総崩れとなる中、勝家は討ち死にを覚悟すると、勝照も戦況が不利なことを認めたようだ。
〈軍兵やゝ落て失ぬ。戦給ふとも勝べきにあらず〉
(軍勢は次第に崩れ失われてまいりました。この上戦われても、勝てるはずはございません)
と述べたと、竹中半兵衛の子・竹中重門(たけなか しげかど)が書いた『豊鑑(とよかがみ)』には記されている。さらに、勝照はそのあとにこう続けている。
〈敵に顔をさらさせ給はんよりも。城に帰り自害有て跡をかくさせ給ふべし〉
(敵にみっともないお姿をお見せになるより、城までお戻りになり、自害なさって最期の様子を敵の目に触れさせぬようになさるべきです)
そして自身はといえば〈某残留て御名をけがし討死すべし〉、つまり、自分がこの場に残って討ち死にすると申し出たのだ。
勝家がこの提案を受けて城へ向かうと、勝照はわずか200の兵を率いて勝家の馬印「金の御幣」を掲げて出陣。このとき、「我こそ柴田勝家なり!」と名乗りを上げたとも伝わる。
十分に敵を引きつけた上で、兄・茂左衛門とともに討ち死にした。享年25。この時間稼ぎによって、勝家は北ノ庄城まで落ち延びることができたという。
最後まで勝家を支え続けた毛受勝照。秀吉勢に敗れた敗者の一人にはなったが、自身の役目を全うしたと言えそうだ。
大岩山砦を攻略した佐久間盛政、賤ヶ岳の戦局はなぜ暗転した?
ドラマで「さあ、飲め飲め! 早いもの勝ちじゃぞ!」と勝家が開いた決起集会を盛り上げたのが、遠藤雄弥演じる佐久間盛政だ。
佐久間盛政は天文23(1554)年、尾張国御器所に生まれた。父は佐久間盛次で、織田家重臣の佐久間氏の一族だった。盛政は柴田勝家の甥とされ、勝家とは近い親族関係にあった。
当初は信長に仕えていたが、天正3(1575)年に勝家が越前一国を与えられると、北陸方面軍の総大将となり、その与力大将として指揮下に入る。加賀一向一揆の平定に貢献したことにより、天正8(1580)年、27歳で加賀金沢城(尾山城)の初代城主となった。
「鬼玄蕃」の異名で知られる猛将だけあって、天正11(1583)年4月、信孝の岐阜での再挙兵に対応するため秀吉が美濃へ転じると、その隙を突いて、盛政は大岩山砦に攻め込んだ。この奇襲によって秀吉方の守将の中川清秀を討ち取るという大戦果を挙げたという。
このときに、勝家は「攻略したら速やかに帰陣せよ」と命じていたと『川角太閤記』や『絵本太閤記』は伝えている。だが、盛政は戦況を有利と見て前線にとどまり続けたため、秀吉の急な「美濃大返し」に突かれ、柴田勢は総崩れとなった。
盛政は敗走中に捕らえられると、秀吉から降伏・仕官を持ちかけられるも拒否。天正11年5月12日、京都に送られて処刑された。享年30。毛受勝照と同様に、一本筋の通った生き方を貫いた。
賤ヶ岳に参戦できなかった佐々成政、「裏切り」と噂されたワケ
そして、ドラマで決起集会が始まるや否や、勝家にお酌をしようと、前田利家と競ったのが、白洲迅演じる佐々成政(さっさ なりまさ)である。
佐々成政は織田家譜代の家臣で、信長の側近として編成された母衣衆から頭角を現した。のちに前田利家らとともに、柴田勝家の北陸方面軍指揮下に置かれることになる。天正9(1581)年秋ごろには越中支配を任され、天正11(1583)年ごろまでに越中をほぼ掌握した。
ドラマでは、秀吉が前田利家のもとへ自ら出向き、味方になるよう直談判するが、断られてしまう。重臣たちには「そうやすやすとはいかなんだ」と言いながらも「しかし、全く無駄足ではなかったぞ」として、こう続けた。
「北の上杉は我らにつくとの約定を取り付けた」
これに黒田官兵衛が「これで佐々殿が北国に足止めとなれば、数でも我らに分がありまする」と応じている。
実際に、清須会議後の対立で勝家方についた成政だったが、賤ヶ岳の戦いの時点では上杉景勝への備えを迫られており、越中を離れることができなかった。本人は決戦の場に立つことなく、叔父の佐々平左衛門が率いたわずか600人ほどとされる援軍を送るにとどまっている。
この不参戦について、当時の畿内では「佐々成政の裏切りによって勝家が滅んだ」との風説が流れたと、奈良興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』に記されている。物理的に動けなかったというのが実情のようだが、裏切りだとみなされていたとすれば、やや気の毒である。
勝家の自刃後、成政は秀吉に降伏して剃髪し、越中一国を安堵された。
毛受勝照や佐久間盛政とは異なり、生き延びた成政だったが、ここから運命が暗転する。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康方に付いて再び秀吉と対立。最終的に降伏することになる。
天正15(1587)年に肥後一国を与えられるも、統治に失敗して国人一揆を招いた責任を問われて、翌年に秀吉の命により切腹させられている。ドラマでは、これからも登場する可能性が高い佐々成政。その身の振り方に注目したい。
物議を醸した中川清秀の描き方、史実では秀吉方として戦死
以上、ドラマでは背景が説明されなかった、勝家側の重臣3人について述べたが、もう1人、中川清秀について説明が必要だろう。
といっても、清秀は柴田勝家の家臣ではない。もともと摂津の池田氏重臣の家に生まれて、茨木城の実質的な城主として荒木村重と関わりを持った。天正6(1578)年、村重が信長に反旗を翻すと、清秀は高山右近とともに信長方へ転じて、有岡城を孤立させるのに一役買っている。
『信長公記』には、2人の寝返りについて、〈思外杖にも柱にもと存知候 中川瀬兵衛 高山右近 御身方に参候〉(意外にも、杖とも柱とも頼りにしていた高山右近・中川清秀が織田方に寝返ってしまった)と記されている。この功によって清秀は、信長や秀吉に重用されるようになった。
「本能寺の変」後は秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは大岩山砦の守将を任されている。だが、前述したように、秀吉不在の隙を突いた佐久間盛政の奇襲を受けると、寡兵のまま応戦した末に討ち死にしたとされる。
命を落とすことにはなったものの、勝者となった秀吉側につき、かつ、逃げることなく名誉の戦死を遂げたことを思えば「敗者」とは言い難い。
だが、ドラマでは、この清秀が実は勝家側に寝返り、逆に勝家側から秀吉側に寝返ろうとした前田利家に討たれる、という展開となっており、今回の放送においては、最も愚かで悲惨な描かれ方をされたといっても過言ではない。
しかも、前田利家の寝返りについては、葛藤の末に天下人となる秀吉の夢に賭けることにした、というプロセスが丁寧に描かれた。だが、清秀の裏切りは唐突で、かつその理由も「摂津一国を頂けるというお約束をお忘れなきように」というセリフから、ただ己の利益を考えて寝返った人物として描かれている。
今回の放送で、中川清秀の存在を知った人も少なくないだろう。これを機に史実を調べ、実際には秀吉方の武将として賤ヶ岳で戦死した人物だったと知れば、ドラマだけで形成された印象を修正するきっかけにもなるはずだ。
ちなみに「賤ヶ岳の戦い」後、清秀の子孫は厚遇されている。戦死したその年のうちに嫡男・秀政が家督を継いで摂津国茨木5万石を領した。天正13(1585)年には播磨国三木へ加増移封された上、妻には信長の娘・鶴姫を迎えた。
裏切り者として描くには、その点でも少し整合性がとりにくい。SNSで「納得できない」という声が続出したのも無理はないだろう。
次回の「北庄城の別れ」では、秀長は降伏を促すべきだと主張するが、秀吉は「勝家が降伏するなどありえない」とし、前田利家に先鋒を命じる。
【参考文献】
『豊鑑』(竹中重門著、国立国会図書館デジタルコレクション)
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『多聞院日記索引』(杉山博編、角川書店)
『多聞院日記 三』(英俊著、辻善之助編、三教書院)
『豊臣秀吉』(藤井讓治著、ミネルヴァ書房)
『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(和田裕弘著、中公新書)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長』(シリーズ・織豊大名の研究14、柴裕之編著、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)
筆者:真山 知幸
