「ヘイ・ジュード」のリリースから今日で58年、1曲の名曲が起こした奇跡、サザン・ロックとビロード革命
ビートルズのシングル「ヘイ・ジュード」は、今から58年前の1968年8月26日にリリースされると(イギリスでは30日、日本では9月14日)、9月28日には全米チャート1位になって9週間連続で首位の座をキープするという大ヒットを記録した。
誰もが一度は耳にしたことがある名曲にまつわる、「創造」と「革命」のエピソードを紹介する。
サザン・ロックの誕生
「ヘイ・ジュード」がヒットし始めた頃、アメリカ深南部のアラバマ州にて。人口8,000人の田舎町マッスルショールズのフェイム・スタジオでは、サザン・ソウルの大物となっていたウィルソン・ピケットのレコーディングが行われていた。
エッジの効いたパワフルなヴォーカルと激しいシャウト唱法で成功をつかんだピケットは、1965年から3年連続でR&Bチャート1位曲を放つなど、最も脂がのっている時期にあった。
この時、ピケットのレコーディングに参加したのが、翌年にオールマン・ブラザース・バンドを結成する22歳の天才ギタリスト、デュアン・オールマンである。
デュアンはスタジオでのセッションの合間に、ピケットに意外な提案を行なった。発売されたばかりのビートルズの「ヘイ・ジュード」を、カヴァーしてみてはどうかと熱心に薦めたのだ。
デュアンをセッションに呼んだプロデューサーで、フェイム・スタジオのオーナーであるリック・ホールは、そのアイデアには賛同しかねたという。
自分でもソングライティングを行うピケットは、日頃からオリジナル曲を重視していたので、世界中でヒットしているビートルズの新曲をあえてカヴァーすることはないと、その案は即座に却下された。
それでもデュアンはピケットに「ヘイ・ジュード」を取り上げてほしいと、熱心に説得を続けていった。きっとうまくいくという、確信めいたものがあったに違いない。
幼い頃から聖歌隊で歌ってきたピケットは、10代の半ばからゴスペルグループで活動した後に、1959年にコーラス・グループのファルコンズへ参加してプロになった。そして「I Found A Love」という曲を書いてヒットさせたことから、ブラック・ミュージックの名門レーベルだったアトランティックに認められて、1964年にソロ・シンガーとしてデビューしてキャリアを築いてきた。
デュアンは気むずかしくて扱いにくいと評判だったピケットを相手に、休憩の間も自ら説得して、「ヘイ・ジュード」を試すところまで持っていった。
ビートルズのヴァージョンはイントロなしで、ポール・マッカートニーがいきなり「Hey Jude~」と歌い始める。最初はピアノだけがコードを鳴らす伴奏のシンプルな始まりだが、徐々にリズムやコーラスが加わって盛り上がっていき、後半からオーケストラが入ってポールのヴォーカルはソウルフルなシャウトを繰り返す。
音域が広くて歌唱力を要求される美しいメロディー、歌詞の内容も含めて否が応にも盛り上がっていく「ヘイ・ジュード」という楽曲の構造には、ゴスペルに通じるものがあった。そのことを理解したピケットの意思で、試しにセッションが行われることになった。
教会を思わせるオルガンの響きとシンプルなリズム隊をバックに、ピケットが感情を抑え気味に歌い出すと、一瞬にしてゴスペルのような荘厳なムードが醸しだされる。
デュアンの抑制が効いたギターが要所々々、歌に絡んだり促したりすることによって、ピケットのソウルフルなヴォーカルはホーン・セクションとも一体となって、何かに導かれるように熱を帯びて激しくシャウトする。
それをきっかけに後半の盛り上がりへと一気に突き進んでいくと、ヴォーカルに呼応したデュアンのギターによる叫びと相まってクライマックスを迎える。
ギタリストのジミー・ジョンソンは、そのセッションが終わった瞬間のことをこう語っている。
「こうして“サザン・ロック”が誕生したんだ」
アフリカ系アメリカ人の中から生まれてきたサザン・ソウルと、アイリッシュ系イギリス人が作った「ヘイ・ジュード」が、ゴスペルを介して出会うことによって誕生したサザン・ロックは、デュアンが率いるオールマン・ブラザーズ・バンドやレーナード・スキナードなどによって、その後のロックシーンに大きな流れを生み出すことになった。
プラハの春
チェコスロバキアでは、1968年の初頭から共産党第一書記のアレクサンデル・ドプチェクの指導の下で、知識人や学生を中心に民主化運動が展開された。3月に検閲制度を廃止したドプチェクは、国民に言論と芸術表現の自由を保障した。ついで4月には新しい共産党行動綱領で、「人間の顔をした社会主義」を目指すことを打ち出す。
これを受けて、人々は社会のあり方や政治について議論ができるようになり、新たな政党の結成の動き現れる一方で、密輸入したレコードで聴いていたビートルズの音楽などがラジオからも流れ始めた。こうして民主化路線を支持する声が高まり、自由化を求める動きに拍車がかかった。
首都プラハの街では、ミニスカートなど西欧風のファッションが見られるようになり、6月には知識人らが署名した「二千語宣言」が発表された。その現象と急速な変革の運動は「プラハの春」と呼ばれたが、共産主義国の同盟を堅持しようとするソ連のブレジネフ政権は、8月20日から21日にかけてワルシャワ条約機構5ヵ国軍による侵攻に踏み切る。
20万人を超えるともいわれた軍隊がプラハの中心部を制圧し、放送局を砲撃してドプチェクらの指導者を連行した。この軍事弾圧、いわゆるチェコ事件が勃発したことによって、「プラハの春」はたちまちのうちに踏みにじられた。それによってわずか数ヶ月で、チェコはふたたび自由にものを言えない国に戻ってしまったのだ。
その時に身の危険から姿を隠さねばならなかったスポーツ選手が、1964年の東京オリンピックで女子体操の個人で3つの金メダルに輝いて、“東京五輪の名花”と称えられたベラ・チャスラフスカである。ベラは準備不足ながらも国際的な世論の高まりもあって、その年の10月に開催されたメキシコ・オリンピックに出場することができた。
そして観客の熱狂的応援にも後押しされて、跳馬、段違い平行棒、床競技の3種目で金メダルを獲得。東京五輪に続いて、最高栄誉にあたる個人総合でも見事に連覇を果たして喝采を浴びたのだ。
しかし、オリンピックが終わって帰国したベラは、反体制の危険人物と見なされて、それから20年にわたって政府の監視下に置かれ続けることになる。「二千語宣言」への署名撤回を、かたくなに拒否し続けたためである。
そんな激動の1968年に、TVドラマ『ルドルフ3世への歌』の挿入歌として作られて大ヒットしたのが、マルタ・クビショヴァーの「マルタの祈り」だ。この曲でスターになったマルタもまた、やはりソ連に制圧されたプラハにいながら、表現の自由を求めて抵抗の姿勢を明確にしていく。
不滅のプロテスト・ソングとして
マルタがビートルズの「ヘイ・ジュード」をチェコ語でカヴァーすることにしたのは、アルバム『ソング・アンド・バラード』の制作の準備を進めていた時だ。アメリカでは「ヘイ・ジュード」がその年の9月28日から、9週連続でシングルチャート1位の大ヒットになっていた。
その美しくも力強いバラードを1曲目に入れて、マルタはチェコ国民に勇気と希望を与えたいと思ったという。
自由のシンボルとして「ジュード」という主人公が歌われたチェコの「ヘイ・ジュード」は、1年後の1969年10月にレコード化されて大ヒットした。だが、マルタの歌が持つ影響力の大きさを知っていた当局は、マルタに出頭命令を下して「ヘイ・ジュード」の歌詞についての尋問を行い、「二千語宣言」への署名についても撤回を迫った。
それに屈しなかったことから、マルタは1970年1月、あらゆる表現活動を禁止されて音楽界から追放された。それまでに出したすべてのレコードは発売禁止、人々が所持することも聴くことも禁じられて没収になった。
しかし、マルタの「ヘイ・ジュード」は不滅のプロテスト・ソングとして、チェコの人々に歌い継がれていったのだ。長きにわたった抑圧の歴史を経てきたチェコでは、民族の知恵として受け継がれた言葉による抵抗という伝統があったからだという。
再び人前にマルタが登場したのは1989年、民主革命によって共産党政権が崩壊した後のことだ。非暴力のもとで穏やかに達成されたことで、「ビロード革命」と称された運動の原動力となったのは、「ヘイ・ジュード」に象徴される文化的方法だったといわれる。
自由への希求を歌と音楽に託して、歌手生命が絶たれることをわかった上で、マルタの自ら選んだ生き方は賞賛された。時を同じくしてベラ・チャスラフスカもまた、ビロード革命によって名誉を回復して体操界に復帰し、チェコ・オリンピック委員会会長などを務めてスポーツ発展に尽力していく。
「正常化時代、チェコ国内には人生を犠牲にした無数の人々がいた。(中略) 当局は、抵抗者のなかでもシンボル的な人々を目の敵にしていじめ抜いた。けれども屈しなかったものがいた。チャスラフスカしかり、歌手のマルタ・クビショヴァーしかりです」(チェコの上院議員ペトル・ピッハルト)
文/TAP the POP、佐藤剛
参考
https://www.tapthepop.net/extra/76457
https://www.tapthepop.net/song/19650
