台湾生まれの日本人男性が里帰り かつての生活懐かしむ
男性の父親は鹿児島県奄美大島の農家出身。現在の彰化県和美鎮にあった新高製糖彰化製糖所に勤務し、現地で結婚した。男性だけでなく、姉と妹も台湾で生まれた「湾生」だ。
そのまま台湾で暮らし続けるものと思っていたが、日本の敗戦で一家の生活は一変した。引き揚げは男性が5歳の時だ。和歌山を経由し、鹿児島の収容所に7カ月滞在。物資の乏しい時代で生活は苦しく、当時2歳前後だった妹は他の多くの子供たちと同様、ここで短い生涯を終えた。
2年後、父親は同じ村の女性と再婚し、働き先を求めて当時米国統治下にあった沖縄に転居。男性と姉は祖父母の元に預けられた。1953年、父親は再婚相手と現地で生まれた子供を連れて戻ってきたが、再び男性と一緒に暮らすことはなかった。
男性は成人後に上京。金を貯めて大学に進学し、政治家になって世界を変えようと思ったが、挫折した。その後は就職し、退職まで勤め上げた。
今回の里帰りでは、製糖所の当時の建物やかつて暮らしていた家もなくなっていたが、廃線になった糖業鉄道の馬鳴山駅跡は残っていた。ここで母親と生まれたばかりの妹が帰ってくるのを、父親や姉と待っていたという。
また、引き揚げの際、当時の友人が顔と同じくらいの大きさの茶色い円形の菓子を餞別(せんべつ)としてくれたことを覚えていた。里帰りに同行した友人がインターネット上でそれが何か意見を募ったところ大きな反響があり、寄せられた意見を参考に男性は実際にさまざまな菓子を食べて、思い出の味と同じか確かめた。
当時の戸籍謄本の取得も考えたが、申請に必要な資料の準備が間に合わず、今回は断念。友人が来年、男性の代理で再度申請するとしている。
男性の息子もメッセージを通じて、多くの台湾人が親切に父親の手助けをしてくれたことへの感謝の言葉を述べているという。
(呉哲豪/編集:齊藤啓介)

