少年の「音楽家の夢」をかき消した戦争…東京で空襲を3回体験、94歳の今も戦火の記憶は鮮明に
あの戦争が終わってから、15日で81年となった。
曽武川重春さん(94)(川崎市麻生区)は1945年、3回の空襲を東京都内で経験した。今も当時の記憶は鮮明で、反戦の思いをこめる。「嫌なもんだよ、あの戦争って言うのは。もう二度と起きてほしくない」――。(金子祥子)
13歳の時、東京大空襲に見舞われた。45年3月9日の夜中、父母と姉4人と一緒に住んでいた本郷(現・文京区)の長屋に、警報が響き渡った。
警報は毎日のように鳴っていたが、その日は、いつもと違った。普段は高い場所を飛んでいる米爆撃機B29が20〜30機、低空飛行してくるのが見える。バラバラバラバラ。すさまじい音で焼夷(しょうい)弾を落としていく。その明かりは、B29の操縦席の米兵の姿を浮かび上がらせた。曽武川さん一家は、近くの東京大学の敷地内に逃げ込み、長屋が燃えていくのをただ眺めるしかなかった。
都内では、本格的な空襲が44年11月頃から始まり、終戦までにその回数は区部だけでも60回以上に及んだ。米軍は、銀座や有楽町などの繁華街、住宅が密集した下町などを無差別に爆撃していった。東京大空襲・戦災資料センターによると、東京への空襲で亡くなった民間人は約12万人と考えられているという。
一家は、東京大空襲後、父親が見つけてきた小石川(同)の家に移り住んだ。父が深川(現・江東区)で営む板金工場は、45年2月の空襲ですでに焼けていた。
4月に、一家はまたも空襲の被害にみまわれた。警報が鳴って近くの防空壕(ごう)に逃げ込むと、突然猛烈な揺れに襲われた。地響きが体の芯まで伝わり、母親が覆いかぶさってくれたほかは、何が起きているのか何もわからなかった。
時間がたって壕からはい出ると、辺り一面焼け野原になっていた。まだ寒さが残る4月でも真夏のような熱がこもっていた。後になって母親から、隣の防空壕を、焼夷弾が直撃していたと聞かされた。「実際に空襲を受けたら、防空壕なんて何の役にも立たない。全員、即死だっただろうね」。
またも、家をなくした曽武川さん一家は、つてをたどり茨城県に一時疎開した。そこでも米戦闘機がダダダダッと音を立てて機銃掃射をする様子が遠目に見えたという。
姉が働いていた電話交換手の職場の上司からの紹介で、すぐに東京・青山の家に移った。そのまもなく5月25日深夜、「山の手空襲」で赤坂、青山の大半が焦土と化した。一家は、家の目の前にあった青山墓地に逃げ込んで無事だったが、この空襲では3000人以上の命が失われたとされる。
空襲から1週間がたっても、火は消えなかった。熱がこもった青山の街に、いくつもの黒焦げの死体が転がっていた。表参道交差点にある大きな石灯籠のあたりを通ると、トラックが大量の死体を詰めこみ、どこかに運んでいった。近くには、赤ちゃんのような真っ黒の物体を抱えた母親が、座った状態で息絶えていた。
曽武川少年の夢は、音楽家だった。だが、戦争は、その夢をかき消した。終戦を迎えると、父親の板金工場で働きながら夜間学校に通い、電気の技術や簿記を学んだ。「時代に振り回されてきた」と振り返る。
板金工、メッキ工として働き、家庭を持ち、娘1人と孫2人に恵まれた。妻に5年前に先立たれ、現在は一人暮らしをしながら、時々、老人ホームで趣味の横笛を披露する穏やかな生活を送っている。「子どもたちには、夢を追いかけてほしい。戦争は怖いものだから」と願いを託す。今年も終戦の日を迎え、「また一年が無事に過ぎた。もう戦争が起きないように。世界中の若者が、戦争反対と声をあげてほしい」と祈った。
◆東京大空襲=第2次世界大戦末期の1945年3月10日未明に米軍が行った無差別爆撃。米爆撃機B29が、現在の墨田区、江東区、台東区など下町一帯に焼夷弾を投下し、約10万人が犠牲になった。
