#2 日本で最初の哲学者が立てた「問い」は──若松英輔さんと読む、西田幾多郎『善の研究』【NHK100分de名著ブックス】

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若松英輔さんによる西田幾多郎『善の研究』読み解き #2

西田幾多郎の『善の研究』は、日本初の哲学書とされ、難解な名著として知られています。しかし、批評家・随筆家の若松英輔さんは、「4つの章を逆から読む」と、その思想は驚くほど身近なものになるといいます。

『NHK「100分de名著」ブックス 西田幾多郎 善の研究』では、「知と愛」「善」「純粋経験」などの5つのキーワードを手がかりに、西田哲学を私たちの日常へと引き寄せながら、「生きる」ことの本質を見出していきます。

2026年7月~9月に開催の「100分de名著」シリーズ・図書カード全員還元キャンペーン対象書籍でもある本書より、「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全5回)。

第1章──生きることの「問い」 より

「哲学の道」を切り拓いた人

 西田幾多郎の文章は難解なことで知られています。なかでも『善の研究』は、もっともむずかしいものであるとされています。もちろん、簡単な文章ではありません。それは一見しただけで分かります。

 ただ西田は、わざと難解に書いているのではないのです。彼は自分が歩いた道をむずかしく語ったのではなく、ありのままに語ろうとしただけです。

 現代の私たちはこの本で西田が用いているよりも、ずっと平易な言葉で哲学について語ることができます。しかしそれが可能なのは私たちが、彼の拓いた「哲学の道」を歩いているからなのです。

 今日の私たちにとって「哲学」はすでに存在するものですが、西田にとってはそうではありませんでした。当時の日本に体系だった哲学は存在しておらず、西田は彼が直面していた「問い」を深化させることができる言葉と文体を発明しなくてはなりませんでした。誰も歩いていない困難な「哲学の道」を切り拓いた人だったのです。

 近代日本において、哲学は西田幾多郎に始まるといわれます。「哲学」をどう考えるかで見解は変わりますが、西洋哲学とのたたかいを経て、新しい言葉によって叡智の世界を語る、という意味では西田は、日本で最初の哲学者だといってよいと思います。

『善の研究』で西田が取り上げた「知と愛」「宗教」「善」「実在」「純粋経験」という問題は、どれ一つとっても簡単ではありません。しかし、むずかしいからといってこの本を読むのを止める前に、それが、どのようにむずかしいのかを考えてみるのは無駄ではありません。

言葉を再定義して読む

 究極的なものを目指して「考える」こと、それを西田は「思惟(しい)」という言葉で表現します。この言葉は、現代人が『善の研究』を読むうえで、「つまずき」になる言葉かもしれません。

 哲学の基盤である「考える」あるいは「思惟する」という行為をめぐって、西田は次のように書いています。傍線部(※本記事では傍線の代わりに< >で示します)に注目しながら読んでみてください。

……思惟と経験とは同一であって、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思う。しかし余はこれがために思惟は単に個人的で主観的であるというのではない、前にもいった様に<純粋経験は個人の上に超越することができる>。かくいえば甚(はなは)だ異様に聞えるであろうが、経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、<個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである>。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。

(『善の研究』第一編 純粋経験 第二章 思惟、傍線(※本記事では< >)は著者)

 まず、ここで西田がいう「経験」も「思惟」も、今日私たちが用いる「体験」や「思考」といった類義語とは、まったく異なる意味を含んでいます。

 彼にとって「経験」とは、個から出発して個を超えていこうとすることでした。また、「思惟」は、単なる「思考」の延長ではなく、「考える」という行為を通じて「個」を超えていこうとする試みだというのです。
 
 別のいい方をすれば、「経験」とは、「個」を超えた場所で生きることであり、「思惟」とは、個人的思考から普遍的思考へと変貌していくことだともいえそうです。

 現代を生きる私たちは、個人がそれぞれの「経験」を深めていく、と考えがちです。しかし、西田は、個は、「人類の経験」によって形成されている、と考えています。

 現代の私たちに西田の言葉がむずかしく映るのは、人生の立ち位置が異なるからかもしれません。西田は「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と述べています。

 ここでの「経験」は「人類の経験」です。西田は、「個」の問題を真剣に考えたいのなら、私たちは世界を「人類」の眼、普遍の眼で見なくてはならない、というのです。私たちも、この本を「個」の眼で読むだけでなく、内なる「人類」──あるいは内なる普遍──を目覚めさせ、読んでみなくてはならないのかもしれません。

 私たちが宿しているもう一つの「眼」を開くこと、それが西田にとっての「哲学の道」だったのです。

根本的な「問い」

 次に、なぜ西田は、独自の哲学の道を歩まねばならなかったのかを考えてみましょう。彼は数学的才能に恵まれていました。数学者の道に進む可能性もあったのです。事実、彼が生涯の師とした北條時敬(ほうじょうときゆき)は、数学者になることを西田にすすめます。

 しかし、西田には哲学の道を行く必然がありました。彼には哲学を通じてしか明らかにすることのできない根本的な「問い」があったのです。

 一九〇七年、『善の研究』が刊行される四年前に書かれた「我が子の死」と題する文章に、その「問い」を考える鍵となる一節があります。

ゲーテがその子を失った時 “Over the dead”[死をのりこえて]というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固(もと)より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外(ほか)に目的があるのではない、<学問も事業も究竟(くっきょう)の目的は人情のためにするのである>。

(『西田幾多郎随筆集』岩波文庫、傍線(※本記事では< >)は著者)

 この一節は、西田が次女・幽子を喪ったときに書かれたものです。ここで西田は、学問もさまざまな営みも、究極的には「人情」のためにする、と述べています。

 ここでの「人情」は、単に情け深いことを意味するのではありません。それは「人間の心の不思議」と置き換えることができるのではないかと思います。

 人間の心の不思議、心の謎とは何か。これが西田の根本的な「問い」であり、この心の不思議をまざまざと経験することが西田にとっての哲学の「目的」だったのです。

 彼にとって「哲学」とは専門家がものごとを考えるための道具ではなく、市井(しせい)の人が人生と深く交わるためのものでした。彼は、そういった哲学を生み出したかったのです。

 その証しに『善の研究』は、出版されたばかりのとき(一九一一年)はさほど広く手に取られなかったものの、戦後に岩波書店が再刊したときに大きな波及力をもって、人々の手に取られ、心に入っていきます。

 二一ページの写真を見れば、当時の人々が西田の哲学を渇望した様子がよく分かると思います。これは一九四七(昭和二二)年に撮られたものです。『西田幾多郎全集』第一巻発売の三日前から書店の前に列ができ、前夜にはおよそ二〇〇人が行列を作ったといいます。

 当時の「渇望」とは、物を多く知りたい、よく知りたい、時流に乗りたいなどということではありません。

 戦後二年しか経過していない、まだ混乱が終わっていない時代です。しかし、食べ物がまったくないわけではありませんでした。こうしたとき、人々は、自分たちが飢えていたのが身体だけではなく、心もまた飢えていたことに気がつくのです。飢えた人が食べ物を求めるように叡智を求めた。そんな時代が、八〇年ほど前にはあったのです。

 哲学には、歴史哲学、宗教哲学、芸術哲学、臨床哲学、教育哲学、環境哲学など、さまざまな領域があります。西田の哲学は、これらの領域にも関係しますが、どれか一つで語り切れるものでもありません。西田幾多郎という一個の人間によって生み出された、ほかの誰の哲学にも似ていない、たいへん独自性の強い哲学です。後世の人はそれを「西田哲学」と呼ぶようになります。

著者

若松英輔(わかまつ・えいすけ)
1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016 年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018 年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33 回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16 回角川財団学芸賞受賞。著書に『イエス伝』(中公文庫)、『生きる哲学』(文春新書)、『悲しみの秘義』(ナナロク社/文春文庫)、『詩集 見えないものを探すためにぼくらは生まれた』『探していたのはどこにでもある小さな一つの言葉だった』(亜紀書房)、『詩と出会う 詩と生きる』『14歳の教室 どう読みどう生きるか』『考える教室 大人のための哲学入門』『はじめての利他学』(NHK出版)など多数。
※刊行時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス 西田幾多郎 善の研究 日常で深める哲学』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。

※本書における『善の研究』の引用部分は、岩波文庫(二〇一二年改版)によります。

※本書は「NHK100分de名著」において、2019年10月に放送された「西田幾多郎 善の研究」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「現実の奥にある『真の現実』を求めて~西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』を読む」を収載したものです。