【原 真】日本のために命懸けで働いてきたのに…在日アフガン難民を切り捨てる日本の「難民保護」政策
2021年8月15日、イスラム主義組織タリバンがアフガニスタンの政権に復帰した。日本政府は、在アフガン日本大使館と独立行政法人・国際協力機構(JICA)の現地職員と家族を日本に退避させた。日本各地の大学や個人は独力で、元留学生らを受け入れた。
出入国在留管理庁によると、在日アフガン人は’25年末で6887人と、タリバン復権前の’21年6月の3476人から倍増している。多数の難民が短期間に日本へやって来たのは、1980年前後のインドシナ難民以来だ。
あれから5年。アフガン難民は今、どうしているのか。訪ね歩くと、難民認定されても、政府による日本語教育が不十分なため、高学歴の人々が能力を生かせる仕事にほとんど就けていない実態が浮き彫りになった。アフガン難民の窮状は、日本の難民保護の貧困を象徴している。
激しい銃撃の中、日本人武官を救出
栃木県内にあるショッピングモールの駐車場。小さなキッチンカーで、大柄な50代のアリさん(仮名)がアフガン料理を販売する。肉を焼いたケバブ、コロッケのようなファラフェル、薄いナンで包んだサンドイッチ…。「夏は、かき氷が人気なんだ」。アリさんが笑顔を見せる。
アリさんは2002年から、首都カブールの日本大使館で警備・輸送を担当していた。’01年の米同時多発テロの後、米国がテロリスト隠匿を理由にアフガンを攻撃し、約5年間続いた第1次タリバン政権が崩壊した後のことだ。
とはいえ、親米政権下でも、タリバンや過激派のイスラム国によるテロが続き、日本大使館周辺にもロケット砲が落ちた。アリさんと同僚は、アフガン政府主催の式典が激しい銃撃に遭う中、参加していた日本人武官を救出したこともある。
駐留米軍が撤退を始めると、タリバンは一気にカブールを奪取し、第2次政権を打ち立てた。東はインドや中国、西はイラン、北は旧ソ連、南はパキスタンに囲まれたアフガンは、大国に翻弄されてきた歴史が長く、タリバンは外国勢力を敵視する。大使館や国際組織の現地職員らは、前政権の職員とともに、タリバンに拷問されたり、殺害されたりする恐れがあった。
日本政府は’21年8月末、自衛隊機をカブールに派遣し、日本大使館とJICAの現地職員らを退避させようとしたが、カブール空港近くで大規模な爆弾テロが起き、頓挫する。結局、アリさんらは同年10月、外務省が手配した民間機で、中東のカタール経由で来日した。「成田空港に着いた時は、安全な所に来られたと、希望を持っていた」。しかし、その希望はすぐにしぼむ。
外務省は歓迎してくれると思っていたが…
東京都内の宿泊施設に入ると、アリさんらは外務省職員から意外な言葉を掛けられたという。
「いつ、アフガンに帰るのか。日本で生活するのは難しい。日本にいたら、地獄のようになるよ」
アリさんは「意味が分からなかった」と振り返る。
「私たちはアフガンで、本当の地獄を見てきた。それでも、日本のために命懸けで働いた。日本が最大の援助国の一つで、他の国のように軍隊を派遣せず、爆撃もしなかったからだ。なのに、なぜ帰国させようとするのか。外務省は歓迎してくれると思っていたが、逆だった」
’22年になって、外務省はアリさんらに対し、閉鎖した大使館を9月に再開するため、帰国して勤務に戻ってほしいと要請。日本に残るなら、8月で雇用契約を打ち切ると通告した。
現地職員のほとんどは、母語がペルシア語に近いダリ語で、業務では英語を使っており、日本語はできない。ハローワークに相談に行ったところ、「日本語をしゃべれなければ、仕事が見つかる可能性は1%」と告げられたという。
絶望した一部の人は、帰国を決意する。現地職員と家族約170人のうち、約60人がアフガンに帰り、数人は縁のある欧米諸国に渡った。
外務省は「帰国を促したという認識はなく、本人が決断した。様子を見て支援してきたが、業務に携わっていないのに、いつまでも給与を払い続けるわけにはいかない。大使館は再開しており、帰国した現地職員も業務に戻った」(中東二課)と説明した(47NEWS’23年5月15日付記事)。
残った約100人について、外務省は8月に難民認定を申請させ、入管庁は約2週間後に全員を認定した。前年の日本の難民認定率は約1・5%と他の先進国に比べ桁違いに低く、審査期間も平均約2年9ヵ月かかっていただけに、極めて異例の措置だ(数字は、不認定に対する審査請求を除く、1次審査のみ)。
アフガン難民の支援者は「外務省は厄介払いをしたかったんだろう。帰国に追い込み、残った人を難民認定させれば、自分たちは手を離せる」と推察する。
日本語の習得プログラムは短すぎる
難民条約によれば、難民とは、人種や宗教、政治的意見などを理由に、母国で迫害される恐れのある人のことだ。日本を含む条約加盟国は、難民を保護する義務を負う。
政府は、審査して難民と認定した人には、安定した「定住者」の在留資格(在留期間5年)を与え、アジア福祉教育財団難民事業本部(RHQ)を通じて、日本語と、日本の生活や文化を学ぶ定住支援プログラムを提供している。
プログラムには、日中の対面またはオンラインの半年コース(4月か10月開始)と、夜間のオンラインの1年コース(4月開始)がある。プログラムの受講中は原則として、生活費(半年コースで大人が月約7万2000円、1年コースで半額)や住居費が支給される。プログラムには就労支援も含まれるが、修了後、難民は直ちに自立を迫られる。
外務省との雇用契約が切れたアリさんは、知人のいる栃木県に転居した。自動車整備やトラック製造の仕事に就いたが、重労働で体を壊す。
RHQの定住支援プログラムには、夜間のオンラインの1年コースに参加したものの、十分な日本語能力を身に付けるには至らなかった。
「初心者には良い授業だったけれど、期間が短すぎる。日本語は漢字もあって、難しい。一通りマスターするには、少なくとも2年ぐらいは必要だ。働きながら勉強するのは大変なので、その間は経済的に支援してほしい」とアリさんは言う。
日本語ができない上、年齢が高いため、仕事探しは難航した。レストランを開きたくても、元手がない。アリさんは、キッチンカーでアフガン料理を売ることを思い付く。軽トラックを購入し、屋台の部分は全て自作した。料理は妻との共同作業だ。
とはいえ、物価の高騰もあって、生活は苦しい。6人の子どものうち、中学に通う2人を除き、みな働いて家計を支えている。二男は25年春に県内の高校に進学したが、日本語の授業に付いていけず、中退した。母国で大学生だった長女も、言葉が壁になって日本の大学に入れず、工場に勤めている。
アリさんは嘆く。「タリバンは女子の教育を認めず、学校を閉鎖した。日本なら、子どもたちは良い教育を受けられると思っていたのに、同じだった」
退避の際、日本政府が同行を認めた家族は、配偶者と子どもだけ。アリさんは、年老いた両親を日本に呼び寄せたいと考えていたが、実現しないまま父は亡くなり、母も病気がちだ。アリさん自身、将来の展望が開けないストレスから抑うつ状態になり、精神科医院に通っている。
タリバンの兵士から「殺すぞ」と脅され
’02年からJICAで運転手として働いていた50代のムラワさん(仮名)は’21年10月、家族6人で日本に避難した。茨城県のJICA筑波で、研修用の農場の管理などを手伝う。カブールの大学を卒業し、英語を話せるムラワさんは、欧米への移住をJICAに要望したものの、協力を得られなかったという。
「JICAは、アフガンの状況が良くなれば、私たちを帰国させるつもりだったようで、『いつ帰るのか』と聞かれた。私は初めて国外に出て、とても落ち込み、体調を崩していた」。ムラワさん一家は’23年3月、母国に帰った。
だが、タリバンの兵士から「外国を支援していたのに、なぜ帰ってきた」とスパイ扱いされたという。「殺すぞ」と脅されたこともあり、転居を繰り返す。
子どもたちは「日本に戻りたい」とせがんだ。ムラワさんは兄弟や友人から借金をして航空券を買い、同年7月、再び来日した。帰国した同僚のほとんどは、日本への再入国許可を放棄する形で離日していたが、一家は許可を維持していたのが幸いした。
いったん帰国して再来日した現地職員は、JICAでムラワさんを含め2人、日本大使館でも2人いる。いずれも危険を感じて、家族と共に戻ってきた。ただ、大使館の2人は、現地で職場放棄したとして懲戒解雇処分となり、他の同僚に支払われた退職金をもらえず、東京地裁に提訴している。
JICAは、ほとんどの現地職員との雇用契約を’23年9月に打ち切った。ムラワさんは埼玉県内のクリーニング会社で働きながら、大型運転免許を取得し、’26年4月から運送会社に勤務している。長女と長男も仕事に就き、二男と三男はそれぞれ日本語学校と中学に通う。
「子どもに教育を受けさせたい。でも、日本では、お金がないと、学校に行かせられない。三男は中学のスキー合宿に参加できない」。難民の子どもたちに向けた公的支援はなく、ムラワさんは「日本政府には失望した」とつぶやく。
再来日後に難民認定され、RHQの生活支援プログラムも修了した。「夜間にオンラインで受講したが、残業で出席できないこともあった。日本語をゼロから学ぶには、1年では足りない。今はユーチューブを見て、語句を覚えている」
来日したJICA現地職員と家族約230人のうち、日本に残っているのは150人程度とみられる。JICAは「自治体やNPOなど、いろんな方の協力で、何とか自立の基盤を構築することができた」(アフガニスタン事務所)と説明する。
ちなみに、現在、アフガンにJICAの常設の事務所はなく、帰国した現地職員らが国連機関を通じて感染症予防などの支援を続けている。
