先の大戦では、戦没者の約9割が1944(昭和19)年以降に死亡したとの推計がある。なぜ日本は、勝ち目のない対米戦争に踏み切り、戦局が絶望的になっても終戦を決断できなかったのか。政治学者の伊藤隆太さんは「日本には開戦時から、想定が崩れた場合の具体的な終戦構想がなかった。戦争末期には、終戦へ向かい得た分岐点が少なくとも3度あったが、いずれも生かせなかった」という――。
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■「戦没者の約9割」は1944年以降に集中

政府が全国戦没者追悼式で用いる「先の大戦」の戦没者数は約310万人である。厚生労働省のホームページによれば、内訳は軍人・軍属等約230万人、一般邦人約80万人である。

歴史学者の吉田裕氏は『日本軍兵士』(中公新書)で、その約9割が1944年以降に死亡したと推算し、論考「『先の大戦』における戦死者数について」(実教出版『地歴・公民科資料』第86号、2018年、1〜2頁、)で、1944年1月1日以降の死没者を約281万人、約91%と算定した。

この年の7月にはサイパン島が陥落し、いわゆる「絶対国防圏」が崩れた。11月以降に本土空襲が本格化し、B-29による無差別爆撃によって多くの民間人が犠牲になった。つまり、この戦争の犠牲の大半は、負けが見えたあとに生まれた。

「もっと早く戦争を終えていれば」と誰もが思うだろう。ではなぜ、日本は戦争を終わらせられなかったのか。

公文書をたどると、終戦へ向かい得た分岐点は少なくとも3度あった。1944年夏、1945年6月、そして8月である。そのたびにこの国は、一度目は出口を封印し、2度目は和平工作と抗戦と並走させ、最後は条件で割れて立ち止まった。

■「サイパン放棄」の時点で勝ち目は消えた

最初の分岐点は、1944年夏に来た。日本は1943年9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導の大綱」(第2回戦争指導大綱)を決定し、マリアナ諸島などを本土防衛のための「絶対確保スヘキ要域」とした(アジア歴史資料センター「今後採るへき戦争指導の大綱(御前会議議題)其の1」)。その要地サイパンは1944年7月に陥落し、東條英機内閣は18日に総辞職した(アジア歴史資料センター「内閣総辞職ニ関スル件」)。

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大本営陸軍部戦争指導班の『昭和19年6月 機密戦争日誌』6月24日条には、サイパン放棄決定後、「最早希望アル戦争指導ハ遂行シ得ス」と記された(アジア歴史資料センター「昭和19年6月 機密戦争日誌」)。業務日誌の一記述であり正式決定ではないが、当時の切迫した認識を示す。

より明確なのは、同班が7月27日に作成した「昭和19年末頃を目途とする帝国戦争指導に関する説明」である。同文書は、マリアナ方面の一部失陥と海軍戦力の低下により、戦争遂行の基礎条件は一変した、と認定し、1945年以降に有力な攻勢を反復する実力はないと判断した[「昭和19年7月27日 昭和19年末頃を目途とする帝国戦争指導に関する説明 (最高戦争指導会議席上討議の参考)」]。

本稿でいう「1944年には敗戦が確定していた」という表現は、政府が降伏を決めたという意味ではなく、軍事力で戦争目的を達成する現実的な見通しが失われたことを意味する。

■終戦を口にした参謀は中枢を追われた

出口を準備する動きは、軍の内部に確かにあった。戦争指導班は1944年3月15日付「昭和19年末を目途とする戦争指導に関する観察(第3案)(1)」で、6、7月以降に「戦争終末ノ方途」を検討する構想を示した(「昭和19年3月15日 昭和19年末を目途とする戦争指導に関する観察(第3案)(1)」)。

しかし『昭和19年6月 機密戦争日誌』6月23日条には、研究案の印刷は認められず、「絶対ニ外部ニ出サザル如ク」と命じられたとある(「昭和19年6月 機密戦争日誌」)。

班長の松谷誠・陸軍大佐は戦後に『大東亜戦争収拾の真相〔新版〕』(芙蓉書房、1984年、80〜82頁)で、東條英機参謀総長らに早期講和を具申し、7月3日に支那派遣軍参謀への転任を命じられたと記した。後世に「左遷」と呼ばれる人事である。ただし、懲罰目的を明記した同時代文書は確認できない。確かなのは、終戦案が政策化されず、提案者が中枢を離れたことである。

■終戦ではなく「もう一撃」を選んだ

参謀総長は1944年7月24日付「大陸指第2089号 指示」で、関係軍司令官らに米軍主力の進攻に対する決戦準備を命じた。戦争全体の「今後採るべき戦争指導の大綱」(第3回戦争指導大綱)が決まるのは8月19日で、作戦準備の指示は大綱の決定に26日先行した。

この大綱では、現有戦力を集中して敵を撃破し、継戦企図を破砕すると定める一方、「飽ク迄戦争ノ完遂ヲ期ス」とした。決戦の成果をいつ講和へ転換するか、失敗時にどこまで譲歩するかは定めていない。「一撃講和」は文書中の用語ではなく、こうした発想を示す後世の分析概念である。

なお、1945年6月8日の御前会議で決定された第4回戦争指導大綱も、「七生尽忠」の信念であくまで戦争を完遂し、国体を護持すると定めた。

■判断が遅れ、犠牲者は増えた

2度目の分岐点は、この1945年6月に来た。

内大臣の木戸幸一が6月8日付で起草した「時局収拾ノ対策試案」(木戸試案)は、同年下半期以降に戦争遂行能力を事実上失うと見通し、ソ連仲介を提案した(外務省編『日本外交年表竝主要文書』下巻、616〜617頁)。

ここで終戦工作が動き出す。6月18日の最高戦争指導会議は、徹底抗戦を続けながら第三国に和平工作を求める方針を決め、22日には天皇自身が、戦争終結について速やかに具体的な研究を進めるよう促した(庄司潤一郎「第二次世界大戦における日本の戦争終結」)。

だが正式方針は「戦争完遂」のまま動かない。抗戦と和平工作が並走し、連合国に示す受諾条件は一本化されなかった。

1944年夏以降、国が決められずにいる間、犠牲は積み上がっていった。例えば1945年3月10日の東京大空襲では約10万人が犠牲となった。同年4月からの沖縄戦では一般住民9万4000人を含む18万8136人が犠牲になった。原爆による死者は、広島で1945年末までに約14万人、長崎で7万人を超えた。集計期間・対象・方法が異なるため単純合算はできないが、戦争末期に民間人を含む巨大な犠牲が生じた事実は明白である。

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■条件を示せないままソ連を頼り、門前払い

残された頼みの綱はソ連による仲介だった。だが、政府として確定した条件を示せないままだった。1945年7月13日、政府は天皇の親書を携えた元首相の近衛文麿の訪ソを打診した。その経緯は、米国務省外交史料集(FRUS)収録の「東郷茂徳外相電報」に残る。

ソ連政府は18日付回答で、天皇のメッセージには具体的提案がなく、近衛の使命も明確でないとの見解を示した[米国外交文書(FRUS)]。佐藤尚武駐ソ大使は27日、確定した提案を欠くままではソ連政府を動かせないと警告した[米国外交文書(FRUS)]。

しかもソ連は、2月に米英首脳と結んだヤルタ秘密協定で、ドイツ降伏から2〜3カ月後の対日参戦を約束していた[米国外交文書(FRUS)]。実際に8月8日、ソ連の宣戦通告によって交渉経路は閉ざされた(「『ソ』連の対日宣戦通告関係」)。

■最後の分岐点でも条件は割れていた

最後となる3度目の分岐点は8月9日に来た。

8月9日から10日にかけての最高戦争指導会議と御前会議では、東郷茂徳外相と米内光政海相が「国体護持」の一条件でのポツダム宣言受諾を主張したのに対し、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、自主的な武装解除、戦争責任者の国内処理、保障占領の拒否を加えた四条件を求めた(東郷茂徳『時代の一面』改造社、1952年、356〜357頁)。

「国体護持」を唱えながら、それを確保するためにどの条件まで要求するかを統一できていなかった。

8月10日の日本政府の申入れは、天皇の統治の大権を変更する要求は含まれていないという「了解」の下にポツダム宣言を受諾する、と通告した(国立国会図書館「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。これは一条件を付した受諾の申し入れであり、連合国の回答を受けた最終的な受諾通告は8月14日である。

受諾をめぐる国家の意思が対外文書として形になったのは、終戦のわずか5日前だった。

■代償を払ったのは中枢ではなかった

冒頭の問いに戻ろう。なぜ、日本は戦争を終わらせられなかったのか。筆者は、1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」に一因があると考える。

この「腹案」では、日本軍の迅速な作戦、ドイツ・イタリアとの提携、英国の屈服、米国の継戦意思喪失を構想している(アジア歴史資料センター「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日」)。戦争終結の機会や外交の働きかけ先は列挙したが、戦況が想定を下回った場合の妥協・受諾の条件や具体的な交渉手順を定めていなかった。想定外の状況に、当時の戦争指導の中枢は全くの機能不全に陥っていたことがわかる。

終戦への出口は、1944年夏、1945年6月、8月、3度開きかけた。1度目には出口が封印され、2度目には抗戦方針と和平工作が並走したまま条件を決めきれず、3度目には条件をめぐって意見が割れた。もちろん、終結を遅らせた要因は軍部の強硬論から連合国側の出方まで複数ある。しかし結果的には、天皇の聖断という大日本帝国憲法が想定していない“非常の措置”が用いられることになった。

公文書の時系列が示すのは、軍中枢が軍事的な勝算を失ったと内部文書に記してから、国として負けを受け入れるまでに、1年あまりを要したという事実である。

1944年1月以降に亡くなった約281万人を、すべて「救えたはずの命」と単純に言うことはできない。しかし、戦没者の約9割が負けの見えたあとに集中したという事実は、「終わらせ方」を持たない戦争の代償を誰が支払ったのかを明示している。

戦争の代償を支払ったのは、決断できなかった政府の中枢ではない。前線に送られた兵士と、銃後で暮らしていた市民だった。

終戦直後の千代田区神田三崎町の様子。現在のJR水道橋駅の周辺。(写真=『日本大学100年』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)
政治学者
群馬県立女子大学・東京都市大学非常勤講師。博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan-Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。
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(政治学者 伊藤 隆太)