拾った財布を届けたら泥棒扱い――日航123便の垂直尾翼を回収した「護衛艦まつゆき」元乗員の怒り
海上幕僚副長や横須賀地方総監など海上自衛隊の要職を務めた真殿知彦氏は、著書『日航123便墜落「撃墜説」の真相』(PHP研究所、2026年)で日航機をめぐる陰謀論に科学的な反論を行った。事故から41年目の夏、陰謀論者らによって殺人犯扱いされた護衛艦まつゆきの元乗組員2人が、真殿氏のインタビューに応じた。
***
官報にも記載されない極秘訓練?
1985年に起きた日航123便墜落事故を自衛隊による撃墜だと主張する人(以下、「陰謀論者」)たちは、事故当日に相模湾で海上自衛隊の演習が行われており、護衛艦まつゆきから発射された訓練用ミサイルが日航機に衝突したと主張する。

そもそも事故当日にそのような演習や訓練が相模湾で行われていたのだろうか。
防衛省(事故当時は防衛庁)では、民間航空や船舶の安全性を確保するために「射撃等訓練区域」を定めている。射撃や物を投下するような訓練はこの区域内でのみ行われるが、そもそも相模湾は同区域には指定されていない。周辺に羽田―大阪などの最も混雑する航空路があり、船舶やプレジャーボートも多いこの海域が、最も危険を伴う射撃訓練の区域になるはずもない。
さらに自衛隊では、射撃等訓練実施日の1週間前を目途に、毎日発行される官報に「告示」をしている。事故当時も官報告示は必ず行われており、「官報検索情報サービス」で全ての記録を検索することができる。1985年8月12日に有効だった防衛庁告示を調べたところ、8件あった。
これは事前に告示がされて当日有効であったことを意味し、実際に当日に訓練が行われたかどうかは別である。気象等の理由で訓練が中止になることもあるが、逆に官報告示をしないでこれらの訓練が行われることは絶対にない。事故当日には、相模湾周辺ではいかなる訓練の告示も行われておらず、射撃を伴う訓練は行われていないことは官報で確認できる。
これは「訓練を行うこと」が事前に告示されたものであり、実際にその日に訓練が行われたかどうかは別の話である。しかし逆に言えば、この官報への「海面告示」をしないで射撃等訓練区域で訓練を行うことはない。
事故の1週間前に出されているのだから、事故後に改ざんすることも不可能だ。
陰謀論者らは「官報を偽造した」とでも言うのだろう。しかし、遅くとも1週間前までに各省庁、都道府県庁、市町村役場、各級裁判所や大学等の公共図書館、報道機関など広範囲に公開・配布されていたものを、事故後に改竄することなど不可能だ。
それでも「極秘の訓練が行われていたのだ」と言い張る人たちに問いたい。当時人口が100万人以上あった湘南地区に近く、多くの船舶が行き交う相模湾で、観光客や若者が海辺に集まる夕方の時間帯に、官報にも公示していない極秘の訓練を、まだ自衛隊に納入されていない造船会社所属の(したがって多くの民間人が乗っている)護衛艦まつゆきでわざわざやる必要が、一体どこにあるのか。
事故当日まつゆきは出港していない
その護衛艦まつゆきが陰謀論者たちの目に留まったのは、たまたま事故の翌日に同艦が日航機の垂直尾翼の一部を洋上で回収したからだ。まるで、財布を拾って交番に届けた親切な人に対して、「お前が財布を盗んだのだろう」と言わんばかりの言いがかりだ。
私の著書『日航123便墜落「撃墜説」の真相』では、まつゆきの「建造経歴書」の一部を初めて情報公開請求で入手し掲載した。建造経歴書とは、艦艇の建造開始以降、進水し就役するまでの履歴を、設計の詳細や海上公試の結果(いつ、どこで何の試験をしたか、試験結果のデータ等)も含めて造船会社が詳細に記し、発注元である防衛省に提出する報告書だ。全数十冊、計数千ページに及ぶ。
当時のまつゆきは造船会社(石川島播磨重工業)に所属する艦として、海上公試を行っていた。建造経歴書には、まつゆきが事故翌日の8月13日に出港し、エンジン関係の各種試験を行った後、8月16日に豊洲に帰港したことが記録されている。つまり、まつゆきは事故当日(8月12日)には当時豊洲にあった石川島播磨重工業第一工場に係留されていたのである。まつゆきが8月12日に係留されていたことは、当時まつゆきに乗っていた乗員、関係会社の人たちの証言とも一致する。また、陰謀論者が主張するミサイルの発射訓練などはこの期間には行われておらず、行われていたのはエンジン関係の各種試験である。当然ミサイルなど一発も搭載していない。
撃墜説が完全に破綻していることは明らかだろう。「現場にいなかった護衛艦」から、「存在しないミサイル」を、多くの人や船が行き交う洋上で「極秘に発射」するなど、どう考えても不可能である。
当時の乗組員が保存していた詳細な記録
2026年7月下旬、私はまつゆきの元乗員2人に面会し、当時の話と現在の心境を伺った。
亀田康平氏(77歳)は当時まつゆきの機関長、鎗光和博氏(75歳)は補給長であった。2000年代初頭に海上自衛隊を退職し、平穏な余生を過ごしていたが、ある日突然、陰謀論者らの著作やネット上に拡散されたデタラメな投稿で、あたかも520名が亡くなった事故の「犯人」であるかの如く描写された。
亀田氏と槍光氏は、まつゆきの艤装員(新造艦艇の建造から就役までを担当する隊員)として最初に選出された5名の中の2人だった。まつゆきを知り尽くした2人は、当時の状況を詳しく説明してくれた。特に亀田氏は、まつゆきの海上公試に関する詳細な記録とメモをつけていたのである。
亀田氏が手書きで几帳面に記録していた内容は、建造経歴書の記録と完全に一致していた。8月12日に出港していないことはここでも確認でき、さらに亀田氏は8月13日から16日の出港の記録も詳細に記録していた。当時の造船所が作成した青刷り(当時はまだコピー機が十分に普及しておらず、青刷りの印刷が使われていた)の資料もすべて残されていた。記録されていたコクヨのB5ノートも1985年当時に販売されていたものであり、実物であることは明らかだ。
亀田氏のメモや証言から、8月12日の時点では、海上自衛隊からは二次艤装員として約30名しか配員されておらず、その中にレーダーやミサイルを担当する隊員はいなかったこともわかった。また、弾薬の請求を担当していた元補給長の鎗光氏によれば、まつゆきの海上公試ではミサイルの発射は行われず、初めて実弾を発射したのは85年12月で76ミリ砲であったという。まつゆきの初めての対空ミサイルの発射は、就役後の1986年10〜11月頃に行われた装備認定試験で、四国沖の射撃等訓練区域で行われたという。
ちなみに123便の尾翼を回収した際も、まだ艤装中のため内火艇(護衛艦に搭載するエンジン付きボート)の操縦手もおらず、海面から引き上げるのに苦労したそうだ。
陰謀論による人権侵害の責任を誰が取るのか
亀田氏がつけていた直筆のメモや記録は、非常に重要な一次史料だ。このようなメモや日記の類は、裁判等でも有力な証拠として採用され得る。私は亀田氏から託されたこれらの貴重な史料の解析を進め、今後もまつゆきの潔白と陰謀論者たちの責任を追及していくつもりだ。
日航機を自衛隊が撃墜したと主張する本は、近年になっても毎年のように出版され、その中のいくつかは全国の学校図書館に選定図書として納入されてしまった。墜落現場の御巣鷹の尾根には、「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」などと書かれた慰霊碑まで置かれている。
「(陰謀論に関する)本を書き、それが学校図書館に配布され、事故現場付近に石碑を建てるなどは、筆者一人の行為とは思えない。真実を知るのは、当時の乗員だけだ。著者の意図とバックにいる者たちに疑問を感じる」(亀田氏)
「何を思って、何のためにこんな本を書いたのか」(槍光氏)
淡々と話す2人だったが、その内心に込められた怒りは計り知れない。
ずさんな調査と事実誤認による主張が書籍やネットで拡散し、元自衛官たちがあたかも大量殺人の加害者であるかの如く描写され、印象付けられたことはまさに「言論の暴力」であり、「人権侵害」以外の何物でもない。
この責任を一体誰が取るのかが、今問われている。
***
記事【日航機墜落の陰謀論を作り出したのは誰か 存在しない「オレンジエアー」に執着したジャーナリストの名前】では、撃墜説の根拠として繰り返し語られてきた「赤い飛行物体」や「オレンジエアー」の正体を検証。存在しないミサイルや標的機をめぐる説が、どのように広がっていったのかを追っている。
真殿知彦(まどの・ともひこ)
1966年、千葉県生まれ。元海将。筑波大学附属高校、防衛大学校を卒業し、89年に海上自衛官に任官。2002年に筑波大学大学院地域研究研究科修士課程を修了。その後、アジア太平洋安全保障研究センター(ハワイ)、NATO国防大学(ローマ)の課程修了。第二航空群司令、海上自衛隊幹部学校長、海上幕僚副長、横須賀地方総監などを歴任。25年12月に退官。著書に、『海軍兵学校長の言葉 激動の時代に信念を貫いた』『江戸の城攻め 戦争を知らないサムライの失敗戦略』『提督の決断 東郷平八郎と山本五十六の光と影』(いずれも三和書籍)、『日航123便墜落 「撃墜説」の真相 海上自衛隊元最高幹部が解き明かす』(PHP研究所、2026年4月から全国学校図書館協議会の選定図書)、『小栗上野介の決断 日本の近代国家をデザインした信念の幕臣』(三和書籍)がある。
デイリー新潮編集部
