山形放送

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シリーズ「戦争の語り部たち」。
「小学生が考える〝戦争〟」と題して、この夏、山形市で開かれた戦争について学ぶワークショップの模様を特集します。

子どもたちが、じっと聞き入っているのは、現在の中国東北部、かつての〝満州〟から命がけで引き揚げてきた鶴岡市の女性の話です。

斎藤幸子さん「私の弟1歳と部落の方々の子ども4人を滝に落とした」

戦後81年ー。
この日、講師をつとめた女性は87歳です。
戦争の経験者から直接、話を聞くことが年々困難になる時代ー。
子どもたちは〝戦争の記憶〟に触れ、〝戦争〟について考えました。

8月6日、広島に原子爆弾が投下され、81年目の夏がめぐってきたこの日、山形市で、「戦争」について学ぶワークショップが開かれました。
参加したのは、小学2年から中学2年までのおよそ20人の児童と生徒です。
自らの戦争体験を子どもたちに伝えるのは、鶴岡市に住む斎藤幸子さん(87)です。

斎藤幸子さん「平和を守る尊さ、命の尊さをきょうの勉強会で知っていただければ本当に助かります」

斎藤さんは1939年、満州で生まれ、山形県出身の両親らとともに暮らしていました。

斎藤幸子さん「満州という所は本当に広くて広くて土が肥えているものだから何でも素晴らしい実り方。そんな所でコメや豆、五穀は全部素晴らしい出来栄えだったので裕福だなと思って暮らしていた」

両親、そして2人の妹と弟とともに過ごした平和な時間は、その後、暗転します。
1944年、斎藤さんが6歳の時に父が召集され、その後、戦死ー。
そして翌年、終戦間際の1945年8月9日、ソ連が侵攻したこの日、斎藤さん家族ら開拓団が住んでいた村に避難命令が出されます。

斎藤幸子さん「馬車に私たちを乗せてさあみんな逃げるよという命令がどこかから入ってきた」

斎藤さんの脳裏に、いまも深く刻まれる過酷な逃避行の始まりでした。

斎藤幸子さん「夜中に寒いもんだからたき火をしたんだそうです。その火を見つけて向こうの方からソ連兵がバーっと発砲してきた。夜中に妹が乗っている馬に当たったのだと思う。暗いからさっぱり分からない。妹たちはコウリャン畑に倒されました」

闇夜に包まれたなかでの襲撃ー。
無我夢中で逃げ延びた斎藤さんたちのもとに、翌朝、傷を負った妹2人が兵隊に運ばれてきました。

斎藤幸子さん「妹だというのを確認してお母さんが見たらまだ息は続いてるしお母さんが2人をおんぶして私が7歳で1歳の弟をおんぶして一緒になってお母さんたちと逃げた」

2人の妹はその後、息を引き取りました。
「いつ襲われるか分からない…」逃避行を続ける開拓団にはそうした恐怖がつきまとっていました。
そして…

斎藤幸子さん「その子どもたちがもし声を出して発砲されたらどうしますと子どもたちを始末しろと言われてしまった。滝があったところで私の弟1歳と部落の方々の子ども4人を一緒に滝に落とした。悔しくて悔しくて今も涙が出る」

逃避行の途中に幼い妹2人と、弟を失った斎藤さんは翌年の9月、母と2人で帰国を果たしました。
「戦争の悲惨さを伝え続けていきたいー」。
のちに、斎藤さんは自らの体験を手記にまとめ、これまでも、そして現在も、記憶を語り継ぐ活動に力を注いでいます。

斎藤幸子さん「あんなつらい目をしたものを人に聞かせたくないと思っていた。今は私が話さないとあの時の事情が分かる人が誰もいなくなると思う」

斎藤さんが語った〝戦争の記憶〟を子どもたちはどのように受け止めたのでしょうかー。

山形市立第二小6年生 佐藤旭くん「1番下の弟を自分の手で殺したというのが心に残った。悔しい思いしか残らないと思うので、心に残ったし、切ないなと感じた」
山大附属小 2年生千葉朱莉ちゃん「幸子さんの妹さんがお亡くなりになられて悲しかった。まだ私と同じ小さい頃なのにそんな戦争を体験することがあるなんて初めて知った」
山形市立第三小6年生 本間康誠くん「戦争は自分が生きるために自分の子どもを殺すから切ないと思った。自分の命が1番大切なものだから起きてほしくないと思った」

ワークショップに参加した子どもたちは、それぞれが感じたことなどを冊子に書き込みました。

◆「戦争はしてはいけない。命を大切にする」
◆「戦争で辛い思いをしながら帰ってきたことが心に残った」
◆「大人になって(重要な判断を)
◆「決める人になった時、誰も不幸にならない選択がしたい」