(写真提供:講談社)

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文芸評論家で、2025年の『第76回NHK紅白歌合戦』ではゲスト審査員も務めた三宅香帆さんは、昭和から令和にかけてヒットした小説やドラマ、映画から「ディスコミュニケーションにあえぐ『夫婦』の姿」が見えてきたといいます。そこで今回は三宅さんの著書『「夫婦」不在社会』より一部を抜粋し、現代日本の物語が浮き彫りにする「夫婦」の不在という問題に切り込みます。

【写真】三宅香帆さん「日本を席巻した物語が浮き彫りにする問題ーー『夫婦』の不在」

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不在の物語

『【推しの子】』『THE FIRST SLAM DUNK』『汝、星のごとく』という2023年のエンタメ界を席巻した3作品は「シングルマザー物語」なのだ。2023年のエンタメ界において、父は不在だった。

不在の話をしよう。

作品の考察や解説が手軽にSNSやYouTubeで見られる時代になって、文芸誌で批評がやるべき仕事とは何だろうと問われることもある。そういう時、私はいつも、自分の友達が言葉に詰まる瞬間の、ちょっとした眉間の皺のことを思い浮かべる。性格の悪い話だとは思うのだが、他人のことを本当に理解しようと思うなら、他人がすらすら語る言葉を聴いていても何も理解できない。いつもある程度の笑みを浮かべている友達が、どこでちょっとだけ眉間に皺を寄せて、その話題は困るなあ、と話題をそらそうとしているのか、そのためらう瞬間について考えるべきだと思う。つまり何かを批評しようと思ったら、語られているものよりも、「語られていてもおかしくないのに語られていないもの」について考えるべきではないか。

物語も同じだ。

物語を本当に理解したいと思ったら、物語で語られているものについて考えてもあまり効果はない。語られていないから見えていないけれど、海に沈んでいて、そこには何かあるはずの、潜んでいる「不在」を、ぷかりと掬い上げることが必要なのだ。

たとえば小説家がインタビューされてすらすらと答えられるような小説の主題だとか、あるいは映画の予告編にさくさくとうつされているあらすじの大部分だとか、そういった「見えている部分」をこねくりまわしていても、わかるものは少ない。批評がやるべきことといえば、語られないことについて語ることだ。――私は普段そんなことを考えつつ、批評家として活動している。

だとすれば、私たちが考えるべきは、「なぜ今私たちはシングルマザーの物語を求めてしまうのか?」ではない。そうではなく、「なぜ今物語において、父は語られづらいのか?」という問いだろう。

なぜ今、物語において、父は語られづらいのか?

――この問いを考えるうえで、同じく2023年に発表された大ヒット映画、ベストセラー小説を読み解いてみたい。

宮崎駿(「崎」は正しくは「たつさき」)監督の映画『君たちはどう生きるか』、村上春樹の小説『街とその不確かな壁』である。

この二つの作品――アニメーションと文学、どちらの分野でも「巨匠」と呼ばれる、1940年代生まれのふたりの作家による2023年発表作――の共通項は何か。

それは「母がヒロイン」であることだ。

『君たちはどう生きるか』における「母」というヒロイン

『君たちはどう生きるか』の主人公・眞人は、異界――いわゆる「イメージの世界」に、青サギという鳥によって誘い込まれる。その時の誘い文句は、「お母さんを探してみないか?」。現実の世界とイメージの世界で、眞人は3人の「母」と出会う。

ひとりめは、現実で眞人の継母となる夏子 。ふたりめは、イメージの世界で母代わりとしてごはんを食べさせてくれ、船を漕いでくれるキリコ。そして実は実母でありながら、イメージの世界でともに旅をするヒロインでもある、ヒミだ。3人とも、眞人にとっては「母」のポジションを担ってくれる存在である。


『「夫婦」不在社会』(著:三宅香帆/講談社)

作中、彼女たちの境界は少しずつ曖昧になる。たとえば夏子を助けようとする場面で、眞人は夏子のことを「夏子さん」と呼びながら同時に「母さん」と呼ぶ。あるいは眞人はヒミを「実の母」であると知りながら、初恋の相手のようにも接する。

キリコとのやりとりには、初体験のメタファーが登場する。キリコが眞人に魚のさばき方を教えるシーンでは、「もっと深く」「一気に突く」という発言が登場する。そしてキリコとさばいた魚は、ワラワラたちの栄養になる。――ここにあるのは人間同士がセックスして子どもが産まれる過程そのものだと読み解けるだろう。

ヒミは、眞人にこう語りかける。

「私、きみを産むんだよ! 楽しみじゃない?」

この台詞に象徴されるのは、「この映画のヒロインとは母親である」という告白にほかならない。

考えてみれば、本作に登場するヒロインたちは、他のジブリ映画のヒロイン像と寸分違わず一致する。美しく、家事ができて、そして主人公を異世界に連れ出してくれる。彼女たちは、実は母の表象だったのだ。それを告白したのが、『君たちはどう生きるか』という映画だった。

映画のラストシーン、眞人はポケットをまさぐる。そこにはイメージの世界から持ち帰った石が入っている。しかしその石を捨てたりはしない。眞人はイメージの母、つまりヒロインと決別なんてしない。失われた母を、そのまま連れて、成長する。母への思慕を消さないまま、眞人は生きることに決める。

「夫」になれない男たち

同年に刊行された『街とその不確かな壁』のヒロインは、主人公が高校時代に恋をしていた少女である。彼女は手紙を書いてくれる。そこには彼女が見た夢が綴られている。その内容というのは、「自分が妊娠しているらしいことに気がつく」というものだった。夢の中で、バスタブに裸で横になっていると、自分のお腹が大きいことに気づく。そしてその部屋に、大人の男の影が登場する。が、そこで手紙は終わりを迎える。唐突なシーンである。この場面はどういう意味だったのか最後まで明かされないままに終わる。作中、少女が堕胎したり母になったりした痕跡はない。ただ読者に「初恋の女の子が母のイメージを伴っている」ことだけ、印象付けて終わる。

それからわたしは自分のお腹がふくらんでいることに気がつく。でも肥満してふくらんでいるわけじゃない。だって身体の他の部分はみんなほっそりしているから。お腹だけが風船みたいにふくらんでいるの。わたしはそこで、自分が妊娠しているらしいことに気がつく。
(村上春樹『街とその不確かな壁』新潮社、2023年)

『街とその不確かな壁』の少女の正体には、「母」というイメージを何かしら伴わせる必要があったのだろう。しかしその「母」というイメージは、現実世界では成就できない願望を伴っていた。

それは『君たちはどう生きるか』にも描かれていたような、自分を産む前の少女だった頃の母親に出会いたかった、という願望である。

自分を産む前のお母さんと恋をして、自分を産んでもらいたい。――それが『街とその不確かな壁』と『君たちはどう生きるか』に共通する欲望である。

この物語を、マザコンだ、フロイトの読みすぎだ、と批判することはしたくない。なぜなら私はふたりの巨匠が同じ物語構造を描いたことに、日本のある欲望が露呈しているのではないかと感じるからだ。優れた物語作家は、自分の欲望を超えて時代の、社会の欲望を映し出す。まるで美しく磨かれた鏡のように。そして宮崎駿も村上春樹も、それをやってきた優れた作家である。彼らが描く物語は、私たちが生きる社会の物語そのものである。

共通する「不在」とは

1940年代生まれのふたりの作家が今、描いた少女の姿。――これは、「日本のある世代の男性たちにとって最も重要な女性のイメージとは、妻ではなく、母のイメージである」ことを端的に表現する。というのも、今回挙げたふたりの作品に、主人公の妻にあたる女性は登場しない。これは、おそらく彼らにとって「妻」よりも「母」のほうがイメージが強いことを表している。

それは翻って、1940年代生まれの彼らが、「夫」ではなく「息子」としての自意識を持っていることを露呈させる。

また、『君たちはどう生きるか』と『街とその不確かな壁』にはもうひとつの共通点がある。それは、彼らが自分の仕事を誰に託すのか――「父」として、息子を誰に設定するのか、あるいはしないのか、という問題を描いていることだ。

「父」として自分の仕事を誰に継承させるのか。それが彼らにとって問題のひとつであることが2作を見るとよくわかる。

つまり彼らには「息子」であり「父」であるという自意識はあるのに、「夫」であるという自意識はすっぽりと抜け落ちているのだ。

『君たちはどう生きるか』と『街とその不確かな壁』に共通する、気になる「不在」とは、「夫」という自意識である。

なぜ彼らには「夫」という自意識がないのだろう?

※本稿は、『「夫婦」不在社会』(講談社)の一部を再編集したものです。