山形放送

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シリーズ「戦争の語り部たち」です。今回は、戦死した父の遺品などを展示する資料館を自宅の敷地内に開設した鶴岡市の男性の思いを特集します。

斎藤延徳さん「うちの父と母です。父は36歳で戦死しました。うちの母親は32歳で戦没者の未亡人になった」

自分の両親についてこう話すのは鶴岡市大山に住む斎藤延徳さん(85)。
ことし5月、自宅の車庫をリフォームし、戦死した父が生前に書いた手紙や、20年ほど前に亡くなった母の手記などを集めた資料館を開設しました。
そしてこの場所を「遺品室」と名付けたのです。

斎藤延徳さん「戦争を知らない人たちにも戦争の痛手、苦しみを本などを通して感じ取ってもらいたい」

斎藤さんの父・延美さんは茨城県庁の土木課に勤務していた1944年6月、秋田の部隊に入隊。
その後、東京・赤坂の部隊に編入され無線傍受の業務に着任しました。
しかし、本土空襲が激化していた1945年5月26日、爆撃を受け、赤坂見附の防空壕で戦死しました。36歳でした。
当時、斎藤さんは4歳。生前の父の記憶はありません。

斎藤延徳さん「父がどういう仕事をやったか。橋の出初式、護岸工事。よくこういうものが作れるなと思って。機械があまりない時代ですよ。35歳まで現場に立っていたわけですからね。痛ましい」

「遺品室」の展示品の多くを占めるのが、父が家族に送った手紙やハガキです。

斎藤延徳さん「宛先はうちの母やわたし宛のもありますね。宛名は誰でもいいんですよ。家族であれば。検閲を受けて出してきた」

入隊してから1年の間に家族のもとに届いた手紙は100通以上。最後の手紙の消印は父・延美さんが亡くなる前日のものでした。

朗読「一同無事で何よりです。新聞で御存知の通り多忙です。でも身体は健在です」

手紙を大切に保管しつづけていたのは斎藤さんの母・たつのさんです。
夫亡き後、たつのさんは教職に就いて4人の子どもを育て、遺族会婦人部としての活動にも取り組みました。
そして、いまから32年前、夫・延美さんの50回忌に合わせて、自らの半生や亡き夫への思いをつづった手記を自費出版しました。

斎藤たつのさん「たった一つの遺品ですね。あとは何もないんですもの。しまい込んでいたものが50年経って書くことになって悲しい時にも遠慮しないで泣けるようになったし、月日の長さがそう変えたのかしら」

たつのさんが亡くなり、遺品を整理していた斎藤さんは父・延美さんからの手紙の数々を発見。大切に保管されていたそれらの遺品と、両親の思いを受け継いでいくため、父の命日の5月26日に遺品室を開設しました。

斎藤延徳さん「父と母の戦争で体験したものが両親が遺してくれたものを実現しようと思って、物を整理するのに5年かけた。やっと遺品室が完成して一般の人に呼びかけている」

「遺品室」の開設から2か月、これまでに地域住民のみならず遠方に住む学生時代の同級生らも訪ねてきたということです。

斎藤延徳さん「遺品の整理や継承する事業をもう10年、15年早くできていればまた別の体制でできていたかもしれないと見に来る人を見るとそう感じる。それでも両親に感謝の気持ちを持っていまほっとしている」

斎藤さんの自宅敷地に設けられた「遺品室」は、早朝から夕方まで常時、開かれています。