「いいかげん本気で賃上げしませんか?」賃金のプロに聞いた、日本人の手取りが増えない「いやな空気」の正体
賃金は上がれども、暮らしは楽にならず――そう感じている人は少なくない。実質的な賃上げを阻んできた「犯人」は、いったい誰なのか?
【前編記事】『政治家でも企業でもない「日本人の給料が上がらない」真犯人は誰なのか…実は“働く人”そのものに原因が』よりつづく。
首藤若菜(しゅとう・わかな)/立教大学教授。'73年、東京都生まれ。専門は労使関係論、女性労働論。著書に『統合される男女の職場』『物流危機は終わらない』『雇用か賃金か』などがある
渡辺努(わたなべ・つとむ)/東京大学名誉教授。'59年、千葉県生まれ。株式会社ナウキャスト創業者・取締役。専門はマクロ経済学(とくに物価と金融政策)。主著は『物価とは何か』『インフレの時代』
労働組合と連合の弱体化が止まらない
渡辺 あくまでも私の印象ですが、多くの労組がこの20年間で組織として弱体化したこともあり、企業側と対等なポジションに立てていないように思います。そもそも、どの組合員がどれくらいの賃金をもらっているか、基本的なデータすら把握できていない労組は少なくない。また企業の壁を越えて、組合間でデータを共有する取り組みも遅れているのが現状です。
首藤 本来であれば賃金データを把握することは、労働組合運動の基本中の基本です。だから従来の労組は、組合員を対象にして自ら賃金調査を行い、そこで得たデータを手に交渉に臨んでいました。現在でも、たとえばパナソニックやシャープ、日立などの大手電機メーカーを中心とした産業別組合・電機連合のように、賃金調査を実施し、企業間比較を行っている組織もあります。
ただしおっしゃる通り、近年では労組の組織率は16%程度まで落ち込み、かなり弱ってきました。賃金表すら整備されていない中小企業や、ベースアップを議論しようにも、どこが「ベース」なのかわからないケースなどもあります。
渡辺 労組のトップである連合も似た問題を抱えていますよね。賃金を決めるプレーヤーには、労働者と企業、さらには仲介役の政府(厚労省)がいます。企業側の団体、つまり経団連や商工会議所などは意識的に優秀な人物を集めて、シンクタンクの機能を充実させています。また官僚になりたい若者が減っているとはいえ、相対的に見れば厚労省にもいい人材が集まっているはず。それらに対して連合は、人材面や組織体制で追いつけていない印象です。
だからこそ賃上げを実現するには、政府や経団連が連合と対立するのではなく、むしろ支えることも大事だと思います。'14年から安倍晋三元首相が進めた、いわゆる「官製春闘」も似たような発想だったのではないでしょうか。
日本は「取引先」がやたらと多い
首藤 企業間でも賃金の上昇幅にはまだ差があり、大企業に比べると中小企業ではいまいち伸びが小さく、停滞しているところも少なくありません。その原因の一つに、多層的な下請け構造があると考えています。
私が研究している物流業界の場合、大手企業の下に小さな運送会社が何重にも下請けに入って、多いときには一つの輸送案件に7〜8社が関わることもあります。この流れの上流にいる大手であれば、他社と強気に交渉して、賃上げした分を価格に転嫁できるでしょう。しかし零細な下請け企業だと、価格交渉の機会そのものが乏しく、賃金も据え置きにせざるを得ません。
渡辺 昨年までの約2年間、公正取引委員会で下請法の改正に携わりました。そこでも首藤先生がおっしゃった問題が指摘されていて、下請けが価格転嫁しやすくするためにできたのが、今年1月に改正施行された「取適法(中小受託取引適正化法)」です。
その作業の最中に感じたのですが、海外に比べて日本はサプライチェーンが長すぎるんです。たとえばある商品について、海外では平均3社が関わるはずのところ、日本ではさまざまな工程で10社も関与している。出荷する部品の価格は各社が自由に決められますが、企業風土も経営方針も異なる10の会社が足並みそろえて、ちょうどいい按配で価格転嫁を進めるなんて、夢物語でしょう。これが海外のように3社であれば、企業間の調整コストが低いので値上げも進めやすくなります。
首藤 先ほど出た物流業界とも重なりますね。日本では多層的な下請け構造が珍しくないですが、アメリカではせいぜい二次請けまでだそうです。今年4月から施行された通称「トラック新法」にも、二次請けまでに抑える努力義務が盛り込まれました。でもなぜ日本では、サプライチェーンがそこまで長くなったのでしょうか?
渡辺 価格転嫁しない経営を続けていると、海外ではたいてい株主が圧力をかけて、方針転換を迫ります。日本ではそういった力が働かなかったために、多少なりとも効率が悪くても、真面目に一つの部品だけ作る企業が生き残れたのかもしれません。
この現状を変えるには、合併やM&Aによって企業を整理統合するのが最善策だと思います。複数の会社を一社の別部門にしてしまえば、価格交渉は圧倒的にスムーズになりますから。
首藤 むしろ日本企業はこれまで、社内でやっていた仕事を外注することで、スリム化を目指してきました。そういった目先のコストダウンも、長期的なデフレに拍車をかけたのかもしれません。
賃金も、みんなで上げれば怖くない
渡辺 長く続いた自粛とデフレの時代も終わり、ようやくインフレが賃上げを呼び、賃上げがインフレにつながる好循環が回り始めたように感じます。
思い返せば'23年、岸田文雄元首相が「'30年代半ばまでに最低賃金1500円を目指す」と決意表明したのが、大きなターニングポイントでした。「将来的に最低賃金が上がれば、それにつれて自分の賃金も上がるだろう」と人々が予測することで、それが社会全体の「空気」になっていきますから。
首藤 中小企業がなかなか賃上げに踏み切れないのも、「賃上げのためにうちだけが値上げしたら、価格競争でライバルに負けてしまうのではないか」と疑心暗鬼になっているからでしょう。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないですが、社会全体が賃上げムードになれば、その懸念も解消されるはずです。
渡辺 先日のW杯は惜しかったですが、よく「日本のサッカーは協調的なチームプレーが強みだ」と言われますよね。しかしこの20年間、日本人は悪い方向にばかり協調してきたように見えます。「価格も賃金もどうせ上がらない」という社会の空気に流されていれば、雇用が守られて居心地よかったのでしょう。
しかし本来あるべき経済活動とは、よい商品には高い値をつけて、しっかり収益を上げることです。そして売れる商品を作った社員の賃金は、社会全体で気持ちよく上げていく――これから求められるのは、そんな「競争的な協調」ではないでしょうか。
首藤 日本の労働者は真面目で几帳面なので、たとえ職場条件が悪化しても、さらなる努力で同じ結果を出そうとしてしまいます。しかしそれを続けると労働の価値は逆に下がっていき、企業から安く使われることになる。
丁寧な労働は日本の美徳ですが、同時に正当に働いたらその分だけ報われるような社会を、この賃上げトレンドを機に実現したいですね。
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「週刊現代」2026年8月3日号より
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