伝説のラリーカーからロータリーエンジン搭載ファミリーカーまで 豊かな歴史が詰まったアウディ博物館の至宝(後編)
アウトウニオン1000 S(1958年)
戦後初のアウトウニオン車は1957年に登場した。1000と名付けられたこのモデルは、DKW 3=6(F 89の進化形)をベースに、より大型で高出力の3気筒エンジンを搭載し、1960年代のトレンドに合わせたデザインに刷新された。
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アウディが展示しているのは1000 Sモデルであり、50psのエンジンと曲面フロントガラスを備え、1000とは一線を画していた。

アウトウニオン1000 S(1958年)*写真は1961年モデル
アウトウニオン1000 SPコンバーチブル(1961年)
アウトウニオンは1957年のフランクフルト・モーターショーで1000 SPクーペを発表し、1961年にコンバーチブル版を追加した。どちらのボディスタイルも、驚くほどフォード・サンダーバードに似たデザインだった。
現代と比べ、当時は容認されていた一般的な慣行であり、ボルボやDAFをはじめとする多くのメーカーが、米国車のスタイリング要素を大胆に取り入れたモデルを販売していた。

アウトウニオン1000 SPコンバーチブル(1961年)*写真は1965年モデル
ドイツのコーチビルダー、バウアーはシュトゥットガルトで1000 SPのボディを生産し、最終組み立てが行われるインゴルシュタットへ出荷した。両モデルとも、55psを発生する980ccの3気筒2ストロークエンジンを搭載し、スポーティな走りを実現していた。アウトウニオンはロードスターを1640台、クーペを5000台生産した。
DKWジュニア(1959年)
DKWのデザイナーたちは、ジュニアの設計にあたり、再び米国に目を向けた。正面から見ると、1950年代のフォード車を縮小したような印象を受ける。後部では、テールフィンの造形がキャデラックを彷彿とさせる。このボディの中には741ccの3気筒2ストロークエンジンが収められ、マニュアル・トランスミッションを介して前輪に34psを伝達する。
ジュニアは手頃な価格で、1959年から1962年の間に約12万台が生産された。生産はインゴルシュタットに新設された専用工場で行われた。この施設は全面的に改装され、現在もアウディの生産ネットワークの一部となっている。

DKWジュニア(1959年)*写真は1960年モデル
DKW F 102(1964年)
DKWは、旧式のF 39にルーツを持つ1000を、近代的なF 102に置き換えた。このモデルは、当時すでに多くの競合他社が採用していたモダンなデザインとモノコック構造を備え、DKWを1960年代へと導いた。
しかし、試乗した記者たちは、F 102が依然として時代遅れの3気筒2ストロークエンジンを採用している点を不満としていた。排気量は1168cc、出力は60psで、ドイツのアウトバーンを走るには十分な性能だった。

DKW F 102(1964年)*写真は1965年モデル
NSU Ro80(1967年)
NSUは、今日わたし達が知るアウディの形成において、小さいながらも重要な役割を果たした。失敗作として記憶されているものの、Ro80は1967年のデビュー当時、最も先進的なファミリーカーの1つとして称賛された。NSU初の前輪駆動車であり、そのデザインは時代を遥かに先取りしたものだった。
また、コモトールという合弁事業を通じてシトロエンと共同開発したツインローターのヴァンケルエンジンを搭載している。

NSU Ro80(1967年)*写真は1977年モデル
ヴァルケルエンジンは滑らかだが、信頼性に欠けており、NSUはそうした不具合を解消できなかった。Ro80は燃費も悪く、第1次石油危機の直後という時期においてこれは重大な問題となり、購入者からの膨大な数の保証請求の結果、NSUは深刻な財政難に陥った。
フォルクスワーゲンは1969年にNSUを買収し、後にアウトウニオンと合併して、今日のアウディブランドを誕生させた。フォルクスワーゲンが本当に興味を持っていたのはNSUという名前ではなく、その生産能力だった。
アウディは現在もネッカーズルムにあるNSUの旧工場で操業を続けており、そこでA5などのモデルを生産している。
アウディ100(1968年)
アウディのエンジニアたちは、極秘裏に100の開発に着手した。親会社であるフォルクスワーゲンから新モデルの開発許可を得ていなかったため、100の存在は最後の瞬間まで公表されなかった。
フォルクスワーゲンは、(極端に言えば)単にビートルの生産台数を増やすためにアウディの生産能力を欲していただけであり、おそらくこの開発を承認しなかっただろう。従業員たちはブランド存続を強く望み、目立たぬよう勤務時間外にプロジェクトに取り組んだ。

アウディ100(1968年)*写真は1969年モデル
100が完成した際、アウディはフォルクスワーゲンを招き、既存モデルのマイナーチェンジ案として審査してもらった。しかし、幹部たちは騙されていたことに気づき激怒した。
100は単なる改良版ではなく完全な新型車であり、実質的にビートルに反旗を翻した反抗的な作品だったからだ。だが、その良さを雄弁に物語ったのは100そのものであり、モダンで、軽量、俊敏、そして驚くほど燃費が良かった。
経営陣は最終的に冷静さを取り戻し、アウディに10万台の生産を許可した。結果として約83万台が生産された後、1976年に生産終了した。
アウディ50(1974年)
1970年代初頭、NSUは旧式化したプリンツの後継となる、まったく新しい前輪駆動の小型車の開発に着手した。フォルクスワーゲンは、NSUブランドの休眠を決定した後、ほぼ完成していたこのモデルをアウディに譲渡した。「50」と名付けられたこのモデルは、アウディのエントリーモデルとして位置付けられ、第1次石油危機の余波を乗り切る上で大きな役割を果たした。
フォルクスワーゲンは1975年、50のバッジエンジニアリング車であるポロの生産を開始した。アウディ版よりも安価で、人気も高かった。経営陣が、アウディはより大型で高価な車両に注力し、経済的なクルマはフォルクスワーゲンに任せるべきだと決定した後も、ポロは存続した。ポロはその恩返しとして、2010年に初代A1に、そして2018年には2代目A1にプラットフォームを提供した。

アウディ50(1974年)*写真は1977年モデル
アウディ・クワトロ(1980年)
1977年、北欧の仮設コースで、フォルクスワーゲンのイルティス(ジープのような簡素なオフロード車)が、はるかに高出力なアウディの乗用車よりも優れた性能を見せたことにテストドライバーたちは首をかしげた。テストドライバーの1人、イェルク・ベンジンガー氏はインゴルシュタットに戻ると、その体験をアウディの取締役フェルディナント・ピエヒ氏に語った。
アウディの四輪駆動システム「クワトロ」は、この会話の中で生まれた。

アウディ・クワトロ(1980年)*写真は1982年モデル
初代クワトロを作るため、アウディは改造したクーペボディに四輪駆動システムを搭載し、200psを引き出した。動力源は、力強い音色を奏でる5気筒エンジンだ。クワトロは、前後とも大型のバンパーと張り出したフェンダーを備え、前輪駆動のクーペとは一線を画していた。
このスタイリングは、その後数十年にわたりアウディを特徴づけるものとなった。この四輪駆動システムのおかげで、クワトロは1980年代、史上最も成功したラリーカーの1つとなった。
アウディ・スポーツ・クワトロ(1983年)
アウディ・スポーツ・クワトロは標準のクワトロとよく似ているが、共通点はほとんどない。アウディはホモロゲーション(公認)のためだけにスポーツ・クワトロを生産した。そのボディは複合材料で作られ、306psの5気筒エンジンを搭載している。当時のドイツ車の中で最もパワフルなモデルであり、かのポルシェ911ターボさえも凌ぐパワーを誇った。
ドイツのコーチビルダーであるバウアーは、1983年から1984年にかけてアウディのために214台のスポーツ・クワトロを製作した。アウディ博物館に展示されているのは、その最初の1台である。

アウディ・スポーツ・クワトロ(1983年)*写真は1984年モデル
アウディ・スペースフレーム・コンセプト(1993年)
アウディは1993年のフランクフルト・モーターショーで、メルセデス・ベンツSクラスやBMW 7シリーズに匹敵する新型高級車を予見させるスペースフレーム・コンセプトを披露し、会場の注目を集めた。
フランクフルトで展示されたアルミニウム仕上げのショーカーはV8 TDIディーゼルエンジンを搭載していたが、アウディ博物館に展示されているダークレッドの車両は、1993年の東京モーターショーで354psのW12エンジンを搭載して公開されたものだ。どちらのモデルも、フルタイム四輪駆動システムのクワトロによる重量増を相殺するため、画期的なアルミニウム製シャシーを採用している。

アウディ・スペースフレーム・コンセプト(1993年)
このスペースフレーム・コンセプトは、初代A8として量産化され、1994年のジュネーブ・モーターショーで市販デビューを果たしている。
