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ホルヒやDKWの超貴重車両も展示

アウディ(Audi)の歴史を知るには、提携や買収が織りなす複雑な網の目をたどる必要がある。

【画像】アウディの前身企業が手掛けた小型高級車【アウトウニオン1000 Sを詳しく見る】 全13枚

ドイツの実業家アウグスト・ホルヒ氏が1910年にアウディを設立したが、彼は1920年に同社を去った。その後、アウディは1932年、ホルヒ(Horch)、DKW、ヴァンダラー(Wanderer)と合併し、アウトウニオン(Auto-Union)を結成。各社はそれぞれ別のカテゴリーに特化し、競合を避けるよう努めた。


インゴルシュタットのアウディ博物館の展示車両を20台紹介する。

フォルクスワーゲンは1966年にダイムラー・ベンツから経営難に陥っていたアウトウニオンを買収し、後にNSUも傘下に加えた。その後、ブランド再編に着手した際、アウディがトップに立ることになった。

本特集では、ドイツ・インゴルシュタットにあるアウディ博物館(Audi Museum Mobile)の貴重な展示品を一部ピックアップして紹介する。アウディを世界的な高級車ブランドへと押し上げた会社とクルマについて理解を深めよう。

(翻訳者注釈:本特集で紹介している車両などの展示内容は、AUTOCAR UK編集部による取材時点のものです。)

アウディ18/70 PS(1925年)

1923年に発表された18/70 PSは、アウディの市販車として最初に6気筒エンジンを搭載したモデルだ。4660ccの直列6気筒エンジンは当時としては驚異的な70psを発生し、軽量化のために軽合金で作られていた。大柄で、パワフルで、ゴージャスな18/70 PSは新車当時、ドイツ国内でも特に高価な1台だった。

アウディはこのモデルを228台生産した。現在、3台(アウディ博物館のカットアウェイモデルを含む)とシャシー1台が現存している。


アウディ18/70 PS(1925年)

ヴァンダラーW 10(1925年)

1925年、ヴァンダラーはW 10を発売し、ライバルたちを驚かせた。乾式クラッチや四輪ブレーキなど最新の装備を備えた、極めて近代的なクルマだった。こうした技術革新により、W 10は日常的に運転しやすいクルマになった。ヴァンダラーは1927年、改良で最高出力40psの1940cc直列4気筒エンジンを導入した。

博物館に展示されているこの車両は、ある医師が新車で購入し、1996年にアウディのコレクションに加わるまで毎日乗り続けていたものだ。常にガレージに保管され、入念にメンテナンスされてきたこのワンオーナーのW 10/IIは、フロントのターンシグナルと運転席側ヘッドライトの後ろにあるミラーを除き、完全にオリジナルの状態を保っている。


ヴァンダラーW 10(1925年)*写真は1928年モデル

DKW F1(1931年)

DKWは、低価格帯のラインナップを拡充するため、約6週間でF1を開発した。他のモデルよりも小型で格段に安価であり、重要な点として前輪駆動を採用していた。設計段階において、エンジニアたちはDKWのオートバイから494ccの2気筒2ストロークエンジンを流用することで、開発時間とコストを節約した。その最高出力は15ps。木製構造により軽量化が図られている。

1931年のデビュー当時、F1はドイツで最も安価な新車の1つとして際立った存在だった。1932年までに4353台が生産され、期間は短かったものの、同社のラインナップに大きな影響を与えた。2ストローク技術と前輪駆動は、1966年にDKWが自動車生産を中止するまで、同社の定番となったのだ。


DKW F1(1931年)

DKWシュヴェーベクラッセ(1934年)

DKWシュヴェーベクラッセは、驚くほど流線型のフロントデザインを採用している。これはデザイン部門による大胆な試みであり、初期の段階ではエンジニアリング部門がもっとオーソドックスなアプローチをとっていた。

「4=8」とも呼ばれるシュヴェーベクラッセは、32ps の2ストロークV4エンジンと完全木製ボディを備えている。そしてコーナリング時のボディロールを軽減するため、特許取得済みのフローティングアクスル技術が採用されている。


DKWシュヴェーベクラッセ(1934年)*写真は1936年モデル

ホルヒ853スポーツ・カブリオレ(1935年)

アウディは、博物館内で特に価値の高いモデルをガラスケースの中に保管している。この1937年式ホルヒ853スポーツ・カブリオレも、そんな至宝の1つだ。100psの直列8気筒エンジンを搭載した853スポーツ・カブリオレは、1930年代後半のドイツで販売された新車の中でも最も格式高い1台だった。

この個体は特に装備が充実しており、メタリック塗装も施されている。当時、ホルヒはメタリックな風合いを実現するために魚の鱗を粉砕し、塗料に混ぜ込んでいた。どの種類の魚の鱗だったかは、もはや誰も覚えていない。


ホルヒ853スポーツ・カブリオレ(1935年)*写真は1937年モデル

アウトウニオン・タイプC(1937年)

欧州各地のグランプリレースでの勝利に満足せず、アウトウニオンは高度に流線型のボディを装着し、空力性能に優れたタイプCの派生モデルを製作。その性能を確かめようとした。勇敢なドイツ人ドライバー、ベルント・ローゼマイヤーは、1938年1月28日、フランクフルトとダルムシュタットを結ぶA5アウトバーンで時速268マイル(約430km/h)を達成し、陸上速度記録を樹立した。

彼は同日、さらに速度を伸ばせると考えていたが、再チャレンジでマシンの制御を失い、命を落としてしまった。したがって、写真のタイプCはレプリカである。


アウトウニオン・タイプC(1937年)

アウトウニオン・タイプC/D(1939年)

アウトウニオンはヒルクライムレース用にタイプC/Dを製作した。その名が示す通り、これはタイプCの16気筒エンジンと、より新しいタイプDのシャシーを組み合わせたものだ。そのスペックは、今日の基準で見てもなお圧倒的である。

ミドシップに搭載された6005ccのV型16気筒エンジンは520psを発生し、最高速度250km/hを実現。他のシルバーアローのレースカーと同様、タイプC/Dも第二次世界大戦後にロシアへ送られ、1995年までドイツへ戻ることはなかった。


アウトウニオン・タイプC/D(1939年)

DKW F 89 L(1949年)

アウトウニオンが第二次世界大戦後に最初に設計したのは、流線型のコンバーチブルでも、豪華なリムジンでもなかった。それはDKW F 89 Lと名付けられたコンパクトな配送用バンである。これは合理的な判断で、戦後の荒廃から都市と経済を再建するドイツにおいて、商用車への需要が高まっていたからだ。

2ストロークエンジンを搭載したF 89は、今日アウディの本拠地であるバイエルンの町インゴルシュタットで生産された最初のアウトウニオン車でもある。


DKW F 89 L(1949年)*写真は1950年モデル

DKW F 89 P(1950年)

F 89 Pは、DKWが戦後初めて生産した乗用車だ。第二次世界大戦中に開発されたF9プロトタイプを進化させたもので、F8のシャシーを改良したものをベースにしている。

搭載された2ストローク2気筒エンジンは、23psを前輪に伝達する。DKWはF 89のバリエーションとして、クーペや2人乗り/4人乗りのコンバーチブルなどを展開した。


DKW F 89 P(1950年)*写真は1951年モデル

ホルヒ830 BL(1953年)

アウディを設立する以前、アウグスト・ホルヒ氏は自身の名を冠した会社(ホルヒ)を設立したが、1909年に同社から追放されてしまった。世界に1台しかないこの830 BLは、ホルヒのエンブレムを冠した最後のモデルである。1953年、アウトウニオンブランドの責任者リヒャルト・ブルーン氏のために生産された。92psのV8エンジンを搭載し、前席と後席の間にガラス仕切りを備えた堂々たるリムジンだ。

1956年、アウトウニオンは830 BLをある米国人兵士に売却した。彼はこれを米国へ輸送し、周囲のドライバーたちを驚かせながら、毎日運転していた。トランスミッションが故障した際には廃車寸前までいったが、コレクターのアル・ウィルソン氏がこれを救い出し、乾燥したテキサスの砂漠にある自身の敷地内に保管した。ウィルソン氏は830 BLを所有していることを決して自慢せず、歴史家たちもその行方を追えなくなっていた。多くの人が、二度とこのクルマを見ることはないだろうと諦めていた。


ホルヒ830 BL(1953年)

ウィルソン氏の子供たちが、父親の庭にひっそりと停められている大きな黒いリムジンについて調べるため、アウディのアーカイブ部門に問い合わせたことで、830 BLの運命は予期せぬ展開を見せた。同社は専門家チームをテキサスに派遣してその真贋を確認した後、830 BLを購入し、ドイツへ輸送した。アウディはこの車両を修復する予定はない。

アウディは2021年、主に中国市場向けに、A8Lの特別な超高級モデルとしてホルヒの名を復活させた。

(翻訳者注釈:この記事は「後編」へ続きます。)