購入したのは日本人なのにフランス政府が返還を拒否…ゴッホの傑作「アルルの寝室」を巡る知られざる物語
※本稿は、西岡文彦『わかるゴッホ』(河出文庫)の一部を再編集したものです。

■ゴッホが自画自賛した作品
オルセー美術館にある『アルルの寝室』は、日本人が買った作品である。
本来は日本にあるべき作品なのだが、関東大震災のおかげで日本に陸揚げされず、第2次世界大戦の混乱に乗じてフランス政府に没収されてしまっている。
アルルの「耳切り事件」の少し後に襲われた激烈な発作から、自分で望んで収容されたサン・レミの精神病院で描かれた作品である。
「耳切り事件」の1カ月後の手紙でゴッホは、病気の後で自分の作品を見直してみると、寝室の絵がいちばんいいように思えたと書いている。椅子と寝台を置いたアルルの自室を描いた『アルルの寝室』のことで、黄色の追求によって加熱し過ぎた制作の小休止を兼かねて描いたという作品である。浮世絵のような作品だとも書いている。
現在はオルセー美術館にある『アルルの寝室』は、このアルルで描いた作品をサン・レミの精神病院で模写したものである。
ゴッホは手紙で『アルルの寝室』のことを、見る人に安息と眠りをイメージさせるための作品と説明している。凄惨な事件を経験したゴッホ自身、この絵の安息感には癒されるところ大であったのだろう。
■西洋絵画を買い漁った憂国の士
この『アルルの寝室』を購入した日本人は、松方幸次郎(まつかたこうじろう)という人物であった。
明治政府の第4期と第6期の内閣総理大臣をつとめた松方正義(まつかたまさよし)の3男であり、川崎造船所(現川崎重工業株式会社)の初代社長として日本の造船産業の黄金期を開いた人物である。
パリの画廊を空(から)にしたとまでいわれる美術蒐集家としての活動は、第1次世界大戦に備えて社長室を移したロンドンに始まっている。
美術への関心は、英国で目撃した戦時ポスターの威力を機に生じたものだという。
やがて松方は、日本に西洋絵画の美術館がないことを憂慮(ゆうりょ)、自力で建設するため、財力にものを言わせて1万点に上る美術品を購入する。モネの代表作『睡蓮』やロダンの『考える人』で知られる東京上野の国立西洋美術館の収蔵品は、この松方の購入した作品群を基盤としたコレクションである。
豪放な買い方により伝説的なコレクターとなった松方が、画廊の壁の端から端までをステッキで指し、「これを全部」と言ったというエピソードは有名である。パリの画商に、松方がゴーギャンを探していると噂が広がると、ロンドン、ベルリンからも作品が集まり、どこの画廊に行ってもゴーギャンが用意されていたという。
コレクションの購入総額は、現在の金額にして450億円に上っている。
■モネに秘蔵の絵を手放させた直談判
松方の蒐集品の中でも逸品(いっぴん)揃いで知られるのがモネのコレクションで、晩年のモネを訪ねた松方は、巨匠が画商に売らず大切に保管していた傑作から、その場で18枚もの大作を選び出し、譲って欲しいと申し出ている。
これにはさすがのモネも驚いて、そこまで言うならと了承したという。

この場面に立ち会ったのが、留学中の美術史家、矢代幸雄(やしろゆきお)であった。
数年後、30代半ばにして英文の『サンドロ・ボッティチェルリ』(1925)を発表、世界的な評価を得ることになる人物である。この大著は、以後長らく日本人が書いた唯一の英文美術史とされていた。
当時50代なかばの松方は作品の購入にあたって、この俊才にしばしば助言を求めていたが、時にその助言をあえて無視する素振りも見せていたらしい。
ある時、松方と訪ねたパリの画廊で、矢代は1枚の絵に夢中になる。
ともかく傑作だから買うようにと、矢代が熱心に勧(すす)めるほど、かえって松方は気のないような顔をしてみせ、憤慨した矢代は帰ってしまう。
松方がこの作品を買っていたことを矢代が知るのは、後になってからである。本命の作品に興味のない振りをする駆け引き好きの実業家気質に加えて、多分に茶目っ気のあった松方が、矢代の若さをからかったものらしい。
他でもない、この矢代を夢中にさせた傑作が『アルルの寝室』である。
■関東大震災が招いた憂き目
この松方コレクションの日本への持ち込みに、思わぬ障害として立ちはだかったのが、2年後の大正12年(1923)に起きた関東大震災であった。
マグニチュード7.9、死者行方不明者10万人余、全壊焼失家屋30万余棟という大惨事の復興資金のために、日本政府は関税を引き上げる。
その結果、日本に持ち帰るはずだった松方の購入した美術品は奢侈品(しゃしひん)と見なされ、10割という高額の課税の対象になってしまう。
もともと美術品に趣味があっての蒐集というよりは、本来は国が建設すべき美術館のために私財を投じた憂国の蒐集品であった。その蒐集品が故国上陸の水際で、購入額の全額を再度支払わされることに、松方が承服できなかったのも無理はない。
憤激した松方は、いったんは日本の港に着いた美術品を欧州に送り返してしまう。
こうしてコレクションは、ロンドンとパリに保管されることになるが、300点とも600点ともいわれたロンドン保管分は倉庫の火災で焼失し、『寝室』を含む400点のパリ保管分は、やがて勃発した第2次世界大戦の終結後、敵国人の財産であるという口実によりフランス政府に没収されてしまう。
さらには、震災以前に日本に持ち込まれていたコレクションも、震災が招いた金融恐慌で倒産した系列銀行の担保物件として、競売にかけられ散逸(さんいつ)してしまう。
■上野で浮世絵とフランス美術を鑑賞できるワケ
散逸を逃れたのは、パリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから購入していた8000点の浮世絵コレクションのみで、現在、上野の東京国立博物館の所蔵する浮世絵の過半はこのコレクションが寄贈されたものである。
この国立博物館と同じ上野公園内に建つ国立西洋美術館は、フランスに没収された松方コレクションが日本に返還される際、その専用美術館としてフランス政府の要請で建設されたものである。日本の美術鑑賞の中心地である上野公園を代表する国立の2大施設はいずれも松方という私人の情熱に、多大な恩恵を蒙っているのである。

終戦6年目の1951年、サンフランシスコ講和条約調印時に内閣総理大臣吉田茂(よしだしげる)は、フランス政府に松方コレクションの返還を申し出る。
この申し出を受け容れるにあたってフランス政府が出した条件は、名目を「返還」ではなく「寄贈」とすること、散逸を防ぐために専用の美術館を建設すること、歴史的意義にかんがみて若干(じゃっかん)の絵画作品を返還の対象から外すことの3点であった。
専用の美術館の設計者として、フランス政府が指名してきたのが、現代建築の父といわれる建築家ル・コルビュジェであった。
落成した国立西洋美術館に、松方コレクションが返還されたのは1959年。松方幸次郎が、84歳で逝って9年後のことであった。今なお、この国立西洋美術館建設当時の収蔵作品群には「フランス美術松方コレクション」の名が冠されている。
晩年の松方は、時折、思い出したように、「フランスに置いてある絵を持って帰らなくては」とつぶやいていたという。
■松方コレクションの歴史的意義
こうして、当初、松方が構想していたものを大幅に下回る規模ながら、日本で初の本格的な西洋美術館は誕生し、政府に代わって取り組んだ松方の志は成就した。
が、この400点のフランスからの「寄贈」作品の中には、矢代をパリで興奮させたゴッホの傑作『アルルの寝室』は入っていなかった。歴史的意義にかんがみてフランス政府が返還を拒否した作品に、『アルルの寝室』も含まれていたからである。
その後、この作品はルーヴル美術館、印象派美術館の所蔵を経て、現在はオルセー美術館のゴッホ室に展示されている。『オーヴェールの教会』、『自画像』、『医師ガシェの肖像』等と共に、同美術館ゴッホ・コレクションの看板作品となっている。
日本人旅行者がこの美術館を訪れれば、必ず目にして帰る作品のひとつである。
が、そうした人々の多くは、この作品を今から百年ほど前に購入しながら、震災、恐慌、戦災に阻まれ、故国へ持ち帰ることのできなかった日本人のことを知らない。
その同じ人物が、日本唯一の国立西洋美術館の収蔵品の大半を、私財を投じて蒐集した功績も、急速に忘れられつつある。
■傑作『アルルの寝室』についてゴッホが語ったこと
現在、60代にさしかかっている美術ファンの中には、おぼろげながらも松方コレクションの名を記憶する人も多いはずである。さらに、その1世代上の美術ファンにとっては、このコレクションの名称はモネ、ロダンの名と共に西洋近代美術そのものの象徴として光り輝いていたのである。

ゴッホは、『アルルの寝室』のことを書いた手紙で、弟を激励している。
君は休む間もなく仕事を強いられ、僕は休む間もなく制作を強いられ疲労困憊(こんぱい)しているが、1年も経てば、僕らが2人で芸術的に意義ある仕事を成就したことは、君にも実感できるに違いない、と書いている。
確かに芸術が、創造上の苦悩と事業上の苦闘が結びつかずに成就することはない。
芸術家が1人で、時代の無理解と対決することはできないのである。
絵を描く者が、描く者しかわからぬ労苦を背負っているように、絵を売る者もまた、売る者にしかわからぬ労苦を背負っている。
同じように、絵を買う者もまた労苦を背負っているのである。
こうした労苦なしには、美術館という施設も生まれることはなかったのである。

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西岡 文彦(にしおか・ふみひこ)
多摩美術大学名誉教授
1952年生まれ。版画家。著書に『印象派の発明』『ピカソは本当に偉いのか?』『図説 名画の歴史』など多数。名画解読型の美術コンテンツの先駆者であり、美術番組の監修も多く手がける。
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(多摩美術大学名誉教授 西岡 文彦)
