米野球殿堂、時代委員会による殿堂候補者発表 アレン、パーカー、ガービー、ジョンら大物ズラリ
米野球殿堂は4日(日本時間5日)、時代委員会による殿堂入り投票の候補者を発表した。今回は1980年以前に活躍した選手たちが対象となっており、16人による選考委員会投票で75%以上の得票率を獲得すれば殿堂入りとなる。投票結果はウィンターミーティングが始まる12月8日(同9日)に発表される。
今回の候補者は紹介しよう。
▼ディック・アレン=1963年でフィリーズでデビューした右打ちのスラッガー。2年目の64年には29本塁打、13三塁打、91打点で新人王受賞。ホワイトソックス時代の1972年には本塁打と打点の2冠王となってMVP。通算351本塁打、1119打点、打率2割9分2厘でOPSは・912を誇った。1966年、初の屋根付き球場アストロドームに人工芝が敷かれた際に「馬が食わない代物(芝生)の上でプレー出来るか」というコメントは有名。
▼ケン・ボイヤー=1970年代に大洋でプレーしたクリート・ボイヤーの兄。同じ三塁手でゴールドグラブ5度の名手。主にカージナルスに所属し、メジャー通算2143安打、282本塁打、1141打点の実績を誇り、オールスター戦にも11度選出。1964年には弟のクリート所属のヤンキースとワールドシリーズで対戦し4勝3敗で制覇。同年は自己最多の119打点で打点王のタイトルを獲得し、MVPにも選ばれた。
▼スティーブ・ガービー=1981年ドジャースで世界一を経験した強打の一塁手。メジャー通算2599安打、272本塁打、1308打点を記録しただけでなく、ゴールドグラブ賞を4度受賞。1207試合連続出場もマークするなど頑健な体躯で1974年にはシーズンMVPを受賞。74年、78年オールスター戦MVP。78年とパドレス移籍後の84年にはリーグ優勝決定シリーズでMVPに選ばれるなど大舞台に強かった。
▼デーブ・パーカー=通算2712安打、339本塁打、1493打点を記録した名外野手。パイレーツ時代の1978年には2年連続の首位打者を達成し、MVPを受賞。また、翌79年のオールスター戦では三塁と本塁への2度の強肩で走者を刺してピンチを救いMVPになっている。シルバースラッガー賞とゴールドグラブ賞を各3度、パイレーツ時代の1979年とアスレチックス時代の1989年にワールドシリーズ制覇。“コブラ”の愛称でバリー・ボンズがデビューする前のピッツバーグで人気を博していた。
▼トミー・ジョン=メジャー26シーズンで歴代26位の通算288勝を挙げた技巧派左腕。通算勝利で彼より多くて殿堂入りを果たしていないのはロジャー・クレメンスとボビー・マシューズしかいない。1975年に当時では不治の病とされていた右肘腱の断裂のアクシデントとなったが手術を受け、その後奇跡のカムバック。復帰後も3度20勝をマークするなど12年間投げ続けたが、その手術は彼の名前をとって「トミー・ジョン手術」として知られている。
▼ルイス・ティアント=キューバ生まれでインディアンス(現ガーディアンズ)でメジャーデビュー。1968年には21勝9敗、防御率1・60でリーグ1位となった。通算229勝172敗。防御率1位2度、オールスター戦選出3度。75年レッドソックスでリーグ優勝に貢献。同年のワールドシリーズは2勝を挙げ、チームは敗れたもののベーブ・ルース賞に選ばれた。打者に背中を見せるような特異な投球スタイルで、野茂英雄投手が1995年にデビューした際に、何度も紹介された。先日、亡くなったばかりだ。
▼ジョン・ドナルドソン=メジャーで有色人種がプレー出来なかった時代にあったニグロリーグで活躍した投手。公式記録とはなっていないが、33年間の現役生活でノーヒットノーラン14度、うち完全試合を2度を含め通算424勝したと言われる。1952年ピッツバーグの地元紙選出のオールニグロリーグのファーストチームの投手として選ばれている。
▼ビック・ハリス=ニグロリーグの選手・監督として活躍した人物。選手としては通算打率が3割を超えており、ホームステッド・グレイズ監督としては9度のリーグ優勝に導くなど、ニグロリーグの名将と称えられていた。通算勝率6割6分3厘は、ニグロリーグの成績がメジャーに統合されたことで、歴代NO1となった。