「かつて日本は『ストリップ列島』だった」…『踊る菩薩』の著者が明かす、令和の時代にあえて”一条さゆり”を描いた理由

写真拡大 (全4枚)

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載 最終回

『ストリッパーとして“昭和の男社会”を生き抜き、「嘘」と「優しさ」で数多の人々を魅了してきた『“踊る菩薩” 一条さゆり』の最期』より続く

“伝説のストリッパー”の「生涯」を描いた作品

私が一条さゆりに興味を持ったきっかけについては、本文で述べている。亡くなって4半世紀になる今、なぜ彼女について書くのか。その理由や経緯を説明する。

1999年に私は『初代一条さゆり伝説 釜ヶ崎に散ったバラ』(葉文館出版)を書いた。彼女の死から2年後である。そこでは労働者の街に生きた彼女の姿を描いた。

一条にとって釜ケ崎での時間はほんの一部である。彼女と付き合った吉田源笠も私に言っている。

「もっと華やかなときもあったんだから、そっちも書いてあげてください」

そのとおりだと思った。スポットライトを浴びた現役時代と、酒と男に溺れる晩年の生活は対である。光と闇、表と裏、実と虚、素朴と派手。彼女の人生はどちらか一方では完結しない。

日本がストリップ劇場であふれていた時代

昭和30(1955)年代から50年代初めにかけ、全国津々浦々にストリップ劇場が生まれ、その数は約300にもなった。これに温泉場の舞台を加えると、最盛期には400館ほどの劇場がこの島国に存在したと見られる。国家による統制や宗教の影響が強い国では考えられない数字である。

ストリップはパチンコと並ぶ、庶民向け娯楽の王様だった。それぞれの劇場には約10人のストリッパーが出演し、1日4回(週末は5、6回)の公演が開かれた。「ストリップ列島」では当時、約4000人ものダンサーが舞台で芸を披露していたことになる。

日本プロ野球機構12球団の全選手は1000人に届かない。落語家の数はブームの今でも、東西合わせて1000人ほどである。ストリップはプロ野球や落語の4倍もの規模を誇る巨大産業で、一条はその頂点に立っていた。歌謡界に美空ひばり、銀幕に石原裕次郎、プロ野球に長嶋茂雄がいたように、ストリップには一条さゆりがいたのだ。

伝説のストリッパー・一条さゆり

彼女の生きた時間をたどることは、その巨大産業で人気を獲得していく過程と、頂点から転落する姿を追うことである。そこには戦後日本の復興、高度成長、そしてバブル経済とその崩壊を生きた日本人の姿があるはずだ。そう考えた私は、いずれ彼女を描き直そうと資料を集めていた。

そして、旧知の日刊ゲンダイ特別編集委員、二口隆光からの提案を受け、2021年3月末から同紙に「伝説のストリッパー 一条さゆりとその時代」を連載した。

さらに連載が終わった後も取材を重ねた。漫才の中田カウス、スタジオジブリの鈴木敏夫などからも話を聞き、この本を書いた。結果的に、ほぼ書き下ろしの内容となった。

カウスや鈴木、そして弁護士の杉浦正健ら彼女と交流した者は例外なく、彼女を話題にするとき、懐かしそうに笑みを浮かべた。彼女自身は警察・検察から危険視され、警告を受けながらも、日本人を励まし、楽しませ続けた。

一条は引退し舞台を降りた後も、波瀾万丈の時間を生きた。劇場内にとどまらず、60年の全生涯をかけ、その「芸」を完結させた。

それは起承転結の構成が明確で、メリハリのついた見事な舞台だった。

今回、その姿を伝えられたとしたら、筆者としてそれに勝る幸せはない。

【この連載をはじめから読む↓】

「伝説の踊り子」がまさかの逮捕...「男たちの憧れ」を「トコロテン売り」へと変えた衝撃の事件

ストリッパーとして“昭和の男社会”を生き抜き、「嘘」と「優しさ」で数多の人々を魅了してきた『“踊る菩薩” 一条さゆり』の最期