ギャラは「100万円」だったはずなのに…講演嫌いの「人気作家」が格安で引き受けた理由とは

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第103回

『50代になってもなお「モテ期」は健在!?…酒と男から足を洗えない《伝説のストリッパー》の望みとは』より続く

戸次公正という男

一条が紹介された南溟寺は1536(天文5)年に開かれた浄土真宗の寺である。豊臣秀吉が生まれた年にあたる。戦国時代の豪族、斉藤氏や真鍋氏が居城とした大津城(真鍋城)跡と伝えられ、1645(正保2)年から幕末までは伯太藩主渡辺氏の菩提寺だった。

当初の寺号は長泉寺。別の場所にあったが、1595年に現在の泉大津市神明町に移った。名を南溟寺としたのは1676年。生け花・未生流発祥の寺としても知られている。

戸次は第2次世界大戦が終わって3年後、この寺に生まれ、16歳で父を亡くす。大谷大学文学部で東洋仏教史を学び、22歳で第20世住職に就いた。大学院で仏教文化を学び、26歳で修士課程を修め、30歳で真宗大谷派全国仏教青年会連盟委員長となっている。仏教の実践者であるとともに研究者でもある。

戸次はユニークな僧で、クラシック音楽やジャズ、ビートルズを好み、寺でも静かに音楽を聴いている。社会活動にも熱心で戦争や死刑、差別、環境破壊に反対している。

高額ギャラ覚悟の「反戦法要」

1977年からは終戦の日に合わせ、ゲストを招き「反戦法要」を開いてきた。86年には人気歌手、河島英五がコンサートをした。高額のギャラを覚悟しながら、戸次が手紙で趣旨を説明すると、河島は10万円のギャラで来てくれた。

79年9月からは毎月第3土曜日に生命や戦争、差別、死刑、原発などについて考える寄り合い談義「聞思洞」を開催した。歴代ゲストには画家の丸木俊、ノンフィクション作家の松下竜一らの名が並ぶ。90年10月には人気作家の中島らもが話をしている。

戸次は中島が朝日新聞に連載していた「明るい悩み相談室」のファンで、手紙を出すと、中島から直接、寺に電話があった。中島は講演嫌いとされ、できるだけ依頼が来ないよう講演のギャラを100万円に設定していると言われていた。

寺の本堂での講演に興味があったのか、中島は行きますよと言ってくれた。戸次が恐る恐る、ギャラは100万円になるのかと確認したところ、中島は「あれは事務所を通したときですわ」と言い、7万円で引き受けてくれた。戸次は新しいことにチャレンジするのが好きで、80年代の終わりごろからは、日本語で読むお経にも挑戦している。

釜ケ崎との付き合いは学生のころに始まった。寺山修司の評論集『書を捨てよ、町へ出よう』を読んだのがきっかけだ。若くして寺を任された戸次は、寺に閉じこもりがちな仏教界に違和感を覚えていた。聖典の言葉をあれこれ解釈するだけの世界を飛び出し、現実社会でさまざまな課題を前に悪戦苦闘している人に会いたかった。

『「結核患者を寺で預かってくれ」…大阪・釜ヶ崎の労働者と向き合う“覚悟”が試された僧侶の“決断”』へ続く

「結核患者を寺で預かってくれ」…大阪・釜ヶ崎の労働者と向き合う“覚悟”が試された僧侶の“決断”