コルシカ島に生まれた「ナポリオーネ・ブオナパルテ」は、いかにして「皇帝ナポレオン」となったか

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フランス第一帝政の皇帝皇帝に即位し、ナポレオン1世となったナポレオン・ボナパルト(1769−1821)。パリには、巨大な棺をはじめ、ナポレオンが残した有形無形のものがたくさん存在しています。

ナポレオンはいかにして皇帝に昇りつめたのか。パリの街を巡りながら、彼の人生を辿ります。

【本記事は、『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集したものです。】

「アンヴァリッド」のナポレオンの棺

パリへ行くと、ルーヴルやオルセー以外にも必ず訪れたくなる個人美術館がいくつかあります。そのなかの一つは7区のヴァレンヌ通りに入り口のあるロダン美術館ですが、その西隣に位置するのがアンヴァリッド(廃兵院)です。金色に輝くドーム型の屋根が目印です。

「アンヴァリッド」とは傷痍軍人の意味で、1670年、ルイ14世の命で建設が始まりました。軍事博物館が併設されていて、今でも傷痍軍人のための施設があります。

ドーム型の屋根の下にある教会の地下墓所の中心には、ナポレオン一世の巨大な棺が安置され、一階からでも地下からでも、円形を描く通路から見ることができます。

アンヴァリッド入り口附近にもナポレオンの彫像がありますが、もうひとつ、遠くからでないと見えない像がヴァンドーム広場に建つ円柱です。

ナポレオンがアウステルリッツの戦勝記念に、敵から奪った大砲を溶かして作らせたと言われていますが、天辺にナポレオン像がパリを睥睨するかのごとく立っています。

「ナポリオーネ・ブオナポルテ」と名乗っていた

ナポレオン・ボナパルト(1769−1821年)はコルシカ島のアジャクシオに生まれました。ジェノヴァ共和国領だったコルシカ島がフランス領となった翌年でした。

コルシカ島はイタリア系の住民が少なくなく、ナポレオンも最初は、イタリアふうに「ナポリオーネ・ブオナパルテ」と名乗っていましたが、軍功を挙げて力を増してきた頃からフランスふうに「ナポレオン・ボナパルト」と言うようになります。のちに皇帝になった彼は、国王には苗字がなく名前だけであるのに倣って、名前の「ナポレオン」だけを使うようになりました。

ナポレオンは古い貴族の家系でしたが、コルシカ島がフランス領になったとき、新貴族となった父親の計らいで、国王の奨学金によりフランスへ留学することになりました。兵学校を経て、1784年にはパリ士官学校へ進みます。歴史や地理に関する書物に読みふける青年だったと言います。

革命勃発後は、ジャコバン派とロベスピエールを支持。1793年、マルセイユ近くのトゥーロンを閉鎖していた英国とスペイン軍との戦いに、砲兵隊長として指揮を執り、トゥーロンを奪回した軍功をロベスピエールに評価されて旅団長となりました。

1795 年10 月、ヴァンデミエールの叛乱と呼ばれる事件が発生します。王党派によるクーデターでした。ヴァンデミエールは共和暦の葡萄月を意味します。国民公会のあったチュイルリー宮が襲撃されます。革命政府はバラスを鎮圧軍の司令官に任命。バラスはトゥーロンの奪回を評価して、ナポレオンを副官に任命します。

ナポレオンはパリの市街地、サン・トノレ通り296番地にあるサン・ロック教会に立てこもった叛乱軍に向けて砲弾を浴びせます。2時間あまりの戦闘が終わったとき、双方の犠牲者は400人に及びました。サン・ロック教会のポーチにはこのときの砲弾痕が残っています。

この戦功が評価され、ナポレオンは国内軍の総司令官に任命されます。国民公会は叛乱軍に対して寛大な措置をとったこともあって、かつてはルイ15世広場と呼ばれ、革命時には革命広場として断頭台のおかれた広場は「コンコルド」、融和の広場と言われるようになりました(正式には1830年以降でしたが)。

1796年、バラスの愛人だった未亡人ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚します。ナポレオンの妃として皇后にもなった女性ですが、嗣子がいなかったため、ナポレオンは1809年ジョゼフィーヌと離婚し、翌年オーストリア皇帝の娘のマリー・ルイーズと再婚。その次の年にはナポレオン2世となる男児が生まれました。

さて、1796年、バラスからイタリア方面軍の司令官に抜擢されると、翌年も各地の戦いで勝利を挙げ、オーストリアとカンポ・フォルミオ条約を締結して、北イタリアで広範囲にわたって領土を獲得したばかりか、いくつもの姉妹共和国(フランスの衛星国家)を作ります。第一次対仏大同盟はここに崩れ落ちました。

姉妹共和国は、それまでの君主制を廃し、自由、平等といったフランス革命の理念を継承し、民衆の意識を変えていきますが、同時に、領土拡大を目的とするナポレオン戦争の軍事面での兵站の役割を担っていました。

【つづきの「フランス民法や銀行だけじゃない…パリの街を巡りながらたどる「ナポレオンが残したもの」では、ナポレオンは実際に何をしたのか、パリの街を巡りながらたどります】

フランス民法や銀行だけじゃない…パリの街を巡りながらたどる「ナポレオンが残したもの」