自ら点滴の針を抜いて布団は血だらけに…死期の迫った「元助産婦の老女」が看取り医に明かした、衝撃の「罪の告白」

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食べることも飲むことも拒否する老女

人生の終わりを自覚したとき、これまで言えなかった感謝の気持ちを伝えたり、謝罪の言葉を口にする方は多い。

それらの多くは家族や友人に向けられるものだが、時々、看取り医の私に告白めいたものをされる方もいる。例えば、家族の誰にも言えない「罪の告白」だ――。

私は、この老女がいつ旅立ち、どこの誰だったのか記憶にないことにしている。初診から1ヵ月ほどの短いお付き合いだったが、いつかこの老女の夢をみるときがくることだけは予感している。

困り果てた娘から依頼され、初めてご自宅にお伺いしたとき、老女は静かに布団に横たわっていた。しばらく前までは何とか自立した生活を送れていたが、最近になって寝たきりとなり、食事も口にしなくなったのだという。

心配した娘たちが入院をすすめたものの、老女は頑なに拒否。困り果てた末に自宅の看取りもしている私に声が掛かった。

仏壇と神棚がある古い旧家の床の間。壁には動かなくなった振り子時計と昭和天皇の写真が掲げられていた。その中央に敷かれた布団で眠る老女は、私が部屋に入っても目も開けず、一言も話さなかった。

<かなり衰弱しているのかな>

そう思った私が心音を聞いてみようと胸元に手を伸ばすと、老女は突然に目を見開き、

「施しは一切いりません」

と、ぴしゃりと言われた。衰弱しているはずの老女だが眼光は鋭く、認知症どころか気力は私を遥かに上回っているようにも感じた。私が手を戻すと老女はまた、目を閉じた。

困り果てる娘

部屋を出て襖を閉じ、隣の部屋で見守っていた娘さんに話を聞いた。

「昔、母は助産師をしておりました。仕事が最優先で、生まれそうだと連絡が来ると自転車で出掛けて行き、2〜3日帰ってこないこともありました。この村の大半の子どもは、母が取り上げたと思います。昔は字が読めない住民もいて、そんな時は名付け親になることもありました」

他の家ではやさしい女性だと言われていたというが、自分の子どもたちには厳しい人だった。

「家に帰ってきたと思ったら、母がタンスを漁っていて、私たちの服を持ち出そうとする。何事かと思ったら、『今、取り上げた子どもの家には兄弟の着る服がないから』って持っていったことが何度もありました。そういう人でした。

その後、産婦人科医院が近くにできてからは、保健師として働きだして、その頃から性格も丸くなって、いいお母さんになってくれたと感じています。

でも最近は認知症のせいなのでしょうか。とても頑固になってしまって、何も食べてくれないし、お茶も飲んでくれません。それで昔から付き合いのある近所のお医者さんに相談に伺ったら、点滴をしていただけることになったのです。でも母は自分で針を抜いてしまい、布団は血だらけになりました。先生、私は、母に何をしてあげればいいのでしょう」

娘さんは泣き出してしまった。隣の部屋で老女は寝ている。いや、寝ているふりをしながら、じつは耳を傾けていたかもしれない。

帰り際にはいた老女の「不穏な言葉」

老女の知性が、どのくらい残っているのか判断がつかない。かなりやせ細っていた状況を鑑みれば、ひょっとすると余命は短く、次回はないかもしれないとも思える。

「次回までに最期が来たとしたら、慌てずにお呼びください」

と言って帰ることにした。

助産師として生をもたらしてきた老女は、看取りを仕事としている私と対極の位置にある。それゆえ、相性が悪いのかもしれない。私を睨みつけた鋭い眼光が忘れられなかった。次回の診察まで仮にご存命であったとしても、私が部屋の敷居をまたぐことを老女は許さないかもしれない。

帰り際、もう一度、老女の部屋を開けて挨拶をすると、娘さんには聞こえないように小さく、私に謎の言葉を吐いた。

「点滴は一本もいらない。私はお産に携わる者としてやってはいけないことをしてしまった。死ぬ前に罰を受けなくてはいけないのです」

老女は目を閉じたまま、そうはっきりと口にした――。

つづく後編記事「「自分の最期が近づくにつれ、夢に出てくるように」…元助産婦の老女が死の間際、看取り医だけに告白した「許されない罪」の中身」では、長年誰にも明かせず悩み続けてきた“意外な過去”について、詳報します。

「自分の最期が近づくにつれ、夢に出てくるように」…元助産婦の老女が死の間際、看取り医だけに告白した「許されない罪」の中身