セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
「8時半の男」誕生秘話(後編)

前編:「8時半の男」宮田征典はどんな投手だったのか?はこちら>>

"8時半の男"が出現する2年前、1963年のことだ。巨人が西鉄と対戦した日本シリーズ第4戦。4回途中から二番手で登板した宮田征典だったが、7回まで投げたなかで2度の悪送球、暴投もあって2失点。打線は反撃できずにチームは1対4で敗れ、宮田が敗戦投手となった。

 最終的に、巨人は4勝3敗で日本一になったのだが、じつは宮田自身、右ヒジ痛の影響で本来の投球ができなかった。コーチから報告を受けた監督の川上哲治は優勝を決めた夜、宿舎での酒席で宮田に言った。「おまえは意気地がないよな、ヒジが痛いから投げられない? 意気地がないよ」と。

 今の時代なら宮田は登板回避だろうし、川上の言葉はパワハラに相当する。だが川上に限らず、軍隊経験を持つ当時の野球人には「ケガで命までは取られない」との概念があった。選手も痛みに耐えて投げていたが、宮田は川上の言葉に憤慨しつつ、負けは負けと認めたうえで、「それじゃ監督、オレは必ずやるから。やってから監督に同等にものを言わせてもらう」と反駁している。


1965年はシーズン20勝を挙げ、日本シリーズでも最優秀投手賞に輝いた宮田征典氏 photo by Sankei Visual

【魔球ミヤボールで打者を翻弄】

 翌64年、ヒジ痛も癒えた宮田は開幕からリリーフで活躍。名火消し投手として「消防夫」とも呼ばれた。一方で先発陣が不調だったなか、5月には完封勝利もあり、同24日の国鉄(現・ヤクルト)戦でチーム最多の7勝目を救援で挙げた。当時のエース・城之内邦雄に好調の要因を聞く。

「コントロール主体の宮田は真っすぐにキレがあって、落ちるボールもあった。その年はそれで勝負しとったんだよね。ミヤボールって言われてたけど、タテのカーブなのかな、今で言えば」
 
 マスコミが名づけた魔球「ミヤボール」。その正体はカーブだったが、リリースの瞬間に手首を強く捻るため、速く小さく曲がったり、鋭く落ちたり、落ち方も不規則。武器を手にした宮田は大きく飛躍すると周りは見ていた。ところが5月27日の阪神戦で登板中、右肩を亜脱臼して戦線離脱。ファン投票トップのオールスター出場も果たせなかった。

 チームは投手陣の足並みが揃わず、勝率5割を保つのが精一杯。同年は3位に終わり、優勝の栄冠は阪神に輝いた。するとオフのある日、川上が今度は宮田に皮肉を言った。「ミヤの故障がなかったら優勝できたわ」と。頭にきた宮田は「冗談じゃねえ!」と毒づいたという。

 身長174センチで体重70キロと細身だった宮田。風貌は優男で、マウンド上では常にポーカーフェイスで冷静沈着。それでも監督に堂々と物を言い、怒りをぶつけるほど内面には強く激しいものもあったようだ。そして宮田自身、監督にそこまで言ったからには......と、オフには肩周りを中心に徹底的に体を鍛えていく。川上とすれば、結果的に宮田を焚きつける形になった。

【ブルペンに姿を現すだけで球場が大騒ぎ】

 迎えた65年。キャンプ初日から絶好調だった宮田は紅白戦で腰を痛めるも、川上の配慮で一軍同行、温泉療養を経て3月末には回復。自身の地元である前橋でのオープン戦で結果を残すと、試合後、川上が報道陣に言った。

「宮田は重要なリリーフ要員です。確実に勝てる時のリリーフに使います。宮田の力はエース級に匹敵します」

 この年、国鉄から金田正一が移籍。大投手らしく、開幕から4月だけで4勝を挙げたのだが、5月下旬に左ヒジ痛で離脱。その時期、先発二本柱の城之内、中村稔も完投できないケースが目立った。そこで、監督の川上は抑えの切り札として宮田を重用。4月に先発1試合で1勝、5月には完投負けもあったが、6月以降は完全リリーフ専任となって連投も増えた。

 その頃、後楽園球場の"ウグイス嬢"だった務台鶴(むたい・つる)が、記者との雑談のなかで言った。

「私、いつも宮田さんの名前を8時半頃に呼んでる気がするわ。8時半の男ね」

 そのひと言を聞いた報知新聞記者の中山伯男が"8時半の男"と記事にしたことで、一気に流行語となる。前年まで放映された人気テレビドラマ『月曜日の男』からの連想だったという。

 当時のナイターは午後7時開始で、たいてい7回か8回、時間にして8時半前後に登板。ゆえに"8時半の男"と呼ばれた宮田は、6月だけで5勝を挙げ、開幕から28試合登板で9勝1敗、防御率1.77。再びファン投票トップ選出のオールスターも今度は無事出場。一躍、ON(王貞治、長嶋茂雄)と[進田1]肩を並べる人気者になると、宮田がブルペンに姿を現すだけで球場が大騒ぎとなり、相手に重圧がかかった。

 重圧のなかで相手は「宮田が出てくる前に点を取ろう」と焦り、いざ登場するとあきらめの雰囲気になる。それほど絶対的だった宮田は、ミヤボールを駆使した前年より球速が向上。速球主体で向かっていき、ポップフライに仕留めるケースが増えた。さらにもうひとつ、城之内によれば、持病がある宮田独自とも言える強みがあった。

「セットに入って、ボールを長く持つ。ルールの20秒を超える時もあったんじゃないかな。それでタイミングを考えながら投げる。心臓が悪いのもあったと思うけど、宮田みたいなピッチャーはそれまでいなかった。オレも先輩らも、どんどん力で押して勝負してたし、オレなんか早く投げすぎて怒られたんだから(笑)」

 心臓疾患の持病があった宮田は、マウンド上でも発作的に脈拍が急変しそうになる時があった。それを鎮めるためにもボールを長く持ち、プレートを何度も外すなどして打者のタイミングを狂わせた。事実、大洋(現・DeNA)の巧打者・近藤和彦は「球そのものの威力というよりも、僕にとっては、長いインターバルで、じらして投げてくるのが嫌だ」と言っている。

【チームの91勝中42勝に貢献】

 一方で、阪神の強打者・山内一弘は「宮田がこんなに勝っているのは、マスコミが『8時半の男』などと言って、自信を持たせたからだ」と論評。前年首位打者の中日・江藤慎一は「じっくり腰を据えてかかれば攻略できんことはない。そう思っているのだが、向こうはゲームの終わり頃、ちょっと出てくるだけで、いつもつかまえる前にコソコソ逃げられてしまう」と発言している。

 先発完投が当たり前の時代に、突然変異的に抑えで勝ち続ける投手が現われたのだ。相手打者の言葉には戸惑いも感じられる。その点、投手はまた違う。宮田の急台頭で他球団の抑えに陽が当たり、64試合(7先発)に登板して18勝を挙げた広島・竜憲一は"西の8時半男"。55試合(8先発)に投げて救援で10勝を挙げた中日・板東英二は"8時45分の男"と呼ばれた。

 しかし何と言っても、元祖"8時半の男"は20勝。リーグ最多の69試合に登板し、164回2/3を投げて防御率2.07と驚異的な数字を残している。まして、当時まだセーブ制度はないが、現行のルールに当てはめると22セーブ。同年のチーム91勝中、42勝に貢献したことになる。"巨人V9"が始まるこの年の優勝に、宮田は絶対欠かせない存在だった。

 また、同年の城之内は21勝、中村も20勝を挙げたが、そのうち城之内の8勝、中村の6勝は今なら宮田にセーブがつく。中村は5月の試合で「宮田が出れば絶対安心できるので、あっさりマウンドを降りた」と言っているが、城之内も降板時に同様の心境はあったのだろうか。

「いや、オレは悔しいだけ。完投できないことがね。宮田がいてありがたいという気持ちもそんなになかった。だいたい、オレのほうがエースなのによ、宮田がスターで有名なんだから(笑)。だって、宮田は4年目で初めて20勝、オレは4年間で24勝、17勝、18勝、21勝だよ。で、給料、オレが一番下だったの。契約してびっくりした。宮田と中村さんのほうが上だったんだから」

 エースのプライドの前では抑えも形無しだが、後年、宮田自身が明かしたところでは、年俸は4倍に跳ね上がったという。だが翌66年、城之内は21勝を挙げるも、宮田は肝臓を壊して入院。以降は成績が低迷し、69年に現役を引退。その後は巨人、日本ハム、西武、中日で長くコーチを務めたが、"8時半の男"は1年限りだった。その1年限りを城之内はどう見ていたのか。

「あれは酷使だったね。我々の時代は試合に出たくて仕方なくて、酷使どうのうこうのじゃないんだけど、宮田は心臓が悪くて体力もそんなになかったし。体にいいからって、すっぽんの生き血を飲んだり、食事に気をつけて、すごく健康に気を遣ってた。あの1年間は大変だったと思う」

 宮田以前にも抑えの切り札はいたが、異名をとるほどのスターはいなかった。そして宮田以後、しばらく抑えのスターは現われないまま、10年近くが過ぎることになる。

(文中敬称略)