「8時半の男」宮田征典はどんな投手だったのか? セーブ制度導入前、リリーフとして絶大な人気を誇った
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
「8時半の男」誕生秘話(前編)
日本のプロ野球にセーブ制度が導入されたのは1974年。今年はそれ以来50年という大きな節目だが、この半世紀の間に、リリーフ投手の立ち位置もさまざまに変遷してきた。
そもそも、かつて投手は先発完投が当たり前。「先発でなければ投手ではない」とも言われた時代から、いかにして「先発−中継ぎ−抑え」の分業制が確立してきたのか。セーブ制度導入以前までさかのぼり、日本プロ野球におけるブルペンの歴史をたどっていく。
「8時半の男」として絶大な人気を誇った宮田征典氏 photo by Sankei Visual
日本のブルペン史を紡ぐ時、原点として絶対に外せない投手がいる。1965年の巨人で20勝5敗、防御率2.07という見事な成績を残した右腕・宮田征典(ゆきのり)である。まだセーブ制度はなく、投手の分業制も確立していなかったなか、抑えとして大車輪の働きを見せた。
抑えといっても、現在のように1イニング限定ではない。2〜3イニング、ときには4イニングを投げていたため、登板は主に7回か8回あたり。当時のナイターは午後7時開始で、平均試合時間は2時間20分程度だったから、宮田の出番はいつも8時半前後になった。そのことから「8時半の男」と呼ばれて注目され、絶大な人気を誇るスター選手だったことで知られる。
では、実際にはどんな投手だったのか──。残念ながら、宮田は2006年、66歳の若さで他界しており、今回、当時の同僚だった城之内邦雄に話を聞いた。「エースのジョー」の異名をとった城之内は宮田とは同学年で、62年に同期入団した間柄だった。
「あの時は新人投手が3人、アマチュアで有名だった3人が巨人に入ったんです。宮田は日大のエースでね、オレは一応、ノンプロのエース。それで柴田(勲)は法政二高で、甲子園の優勝ピッチャーだったから」
群馬出身の宮田は、前橋高から日本大に進学し、投手としての素質を開花させた。東都大学野球では通算24勝を挙げ、3度のリーグ優勝に貢献。2年秋と4年春の優勝時に最高殊勲選手賞を獲得し、4年時の全日本大学野球選手権大会では東都大学野球代表として初優勝、大学日本一に導いている。それだけに「東都No.1投手」とも評されたが、城之内はやんわりと否定する。
「いやぁ、東都ナンバーワンとは言えないんじゃないかな。日大にはもうひとり、竹中(惇)という主力ピッチャーもいてね、どっちがエースかわからないぐらいだったから」
【もともとプロ野球に興味なし】その竹中が、宮田の人生を大きく変えた。もともと宮田はプロに興味がなく、卒業後は企業で勤務したあと、父親が経営する鉄工所を継ぐつもりだった。現に日立製作所への入社が内定していた。ところが、まだドラフト制度のない時代、巨人入団の仮契約を交わしていた竹中を中日が引き抜いた。理由は、愛知出身の竹中が巨人に入るのはけしからん、というもの......。
当然ながら、巨人監督の川上哲治は憤慨し、日大監督の香椎瑞穂に「竹中の代わりを出せ!」と要求。そこで宮田が指名され、監督命令ゆえに断れず、巨人球団代表にも口説かれ、観念するしかなかった。プロ入り後3年間で通用しなかったらきっぱりと辞める決意のもと、入団した。同じ新人投手として、城之内の目に宮田はどう映ったのか。
「キャンプで初めて一緒にやってみて、オレのほうが上と思った。とくに真っすぐの球威とかね。それでオレはシュートがよくて、カーブもキレがあったから。ただ、コントロールに関しては、宮田のほうがよかったかもわからないな。フォームはオーバースローで、ストライクゾーンの四隅を突くだけの制球力があったから。それと、宮田は足が速かったんだよな」
ノンプロの日本麦酒時代に「社会人No.1の速球投手」と評された城之内。入団後に主力の中村稔と村瀬広基をライバルと定めてキャンプを過ごすと、オープン戦では7試合に登板して4勝0敗、33回を投げて自責点1という好成績。新人ながら開幕投手に抜擢されるほどの即戦力右腕だった。一方、制球力はあった宮田だが、入団当初は野手としての起用が想定されていた。
城之内も認めた俊足の宮田は、100メートル12秒。その足に首脳陣が魅力を感じたため、入団契約を結んですぐ、61年11月の秋季練習では内野手だった。宮田自身、日大時代に野手の経験があった。それでも打撃投手を務める機会は何度かあり、投げるほどに球速が上がっていった結果、投手一本となったのだった。
言い換えれば、首脳陣は投手・宮田に大きな期待を寄せていなかった。城之内が開幕戦で初登板初先発を果たしたのに対し、二軍スタートの宮田がリリーフで一軍初登板を果たしたのは6月。初先発は7月1日の大洋(現・DeNA)戦だったが3回で降板。2度目の先発となった8月2日の中日戦では完投で初勝利を挙げたが、その頃、城之内はすでに10勝を挙げていた。
【リリーフ=先発完投できない投手】結局、62年、城之内は56試合に登板。31試合に先発して14完投(5完封)で24勝12敗、280回2/3を投げて防御率2.21という圧巻の成績。新人王に選出された。対して宮田は28試合登板で4試合に先発し、2勝3敗、74回2/3を投げて防御率2.53。今の時代なら「1年目からリリーフで健闘した」と評されるところだが、「当時は違うんだよ」と城之内は言う。
「ピッチャーは先発して完投できなきゃ、リリーフをやるしかないという時代だからね。要するに、先発は完投するもんだと。そのなかで金田さん、稲尾さん、杉浦さんとかエースの人なら、次の先発まで3日空くとなれば、その間でリリーフもやる。まあ、オレもやったけどね。あとは、エースだったのが、力がなくなってきてリリーフに回るというのもあったな」
通算400勝の金田正一(元・国鉄ほか)を筆頭に、61年にシーズン42勝の稲尾和久(元・西鉄)、59年に38勝の杉浦忠(元・南海)といったエースたちの全盛期。先発の合間にリリーフで登板し、そこでも勝ち星がついた。だからこそ、途轍もない勝利数を記録できたのだが、それだけ登板を重ねれば必然的に故障につながってしまう。
実際、プロ7年間で通算164勝を挙げた杉浦は、8年目の65年、右腕の血行障害が原因で長いイニングを投げられなくなった。そこで同年途中からリリーフに転向したのだが、一時は<投球不能となり引退>と報じられ、最悪の場合は右腕切断も予測されるほど深刻な故障だった。杉浦自身、その時の心境を手記で綴っている。
<ついにショート・リリーフしかできなくなってしまった。先発完投ができないなんて、投手としてこれほどつらいことはない。連投でも何でもやってきた私にとって、物足りないのは当然のことである。しかし、そんな好きなことばかりは言っておれない。投げられるだけでもいいとしなくてはならない>
リリーフ=先発完投できないことだと如実に示されているが、この65年、逆に宮田はリリーフで光り輝く。ただし、同年から専任になったのではなく、2年目の63年は47試合に登板して先発は1試合。3年目の64年も35試合のうち先発は4先発だった。1年目からエースとなり、2年目は17勝、3年目は18勝を挙げた城之内はどう見ていたのか。
「宮田は体力がそんなにあるほうじゃなかったし、心臓がちょっと悪かった。それで完投は難しいってことで、川上さんとしてはリリーフで生かそうとしたんじゃないかな」
幼少時から宮田には心臓疾患の持病があり、発作的に脈拍が急変。試合中も鎮静剤を携帯する必要があり、病気のためにリリーフ専任になったのも同然だった。監督の川上自身、「心臓に欠陥があるので、宮田を完投させるのはマイナスだ」と公言している。
ただ川上にすれば、入団当初は野手として見ていた宮田が、投手として機能しているのはうれしい誤算だったろう。まして制球力があり、63年は110回で防御率1.88、64年は96回2/3で2.33と安定感十分。ゆえに戦力として認めた証か、あるいは期待の裏返しか、宮田本人にはたびたび厳しい言葉を浴びせていた。
(文中敬称略)