パリオリンピック日本の旗手・江村美咲は女子サーブル「世界女王」 強さの理由を東京五輪金メダリストが分析
日本時間7月27日(現地時間26日)に行なわれたパリ五輪の開会式で、日本代表チームの旗手を務めた、フェンシング女子サーブルの江村美咲。2022年のカイロ、2023年のミラノと世界選手権を連破し、パリでもメダル獲得が大いに期待されている。
その強さの理由はどこにあるのか。東京五輪で日本フェンシング界初の金メダルを獲得した男子エペ団体メンバーの宇山賢氏が、江村のプレーの特徴や、7月29日に行なわれる女子サーブル個人の注目ポイントなどを語る。
パリ五輪の開会式で日本チームの旗手を務めた江村 photo by Kyodo News
私も東京五輪に出場した3年前は、江村選手とはエペとサーブルで種目は異なるものの、同じ国内拠点(ハイパフォーマンススポーツセンター/HPSC)で練習を重ねました。世界選手権やオリンピックなどの国際大会では、自身の試合に集中すると共に、フェンシング日本代表チームの一員として江村選手に声援を送ってきました。
私は東京五輪後に現役を退きましたが、選手として共にフェンシング界を盛り上げてきた日々や、外から見て感じることを踏まえながら、江村選手の強さを分析していこうと思います。
フェンシングに限ったことではありませんが、審判の判定に不満がある時に、選手が大きく身体を動かしたり、言葉を使って抗議する場面は珍しくありません。サッカーなどの他競技でもよく見られますし、もはや一種の"技術"のようなものと言ってもいいかもしれませんね。
以前の江村選手は、プレーの判定(電気審判機の信号を基に主審が判定する)に不満がある時に、自身の感情を身体の動きで表現していた印象がありました。ですが、東京五輪の頃から変化が見られ、まずは冷静に自分の意見を審判に主張した後に、審判の「なぜその判定に至ったのか?」の説明にしっかりと耳を傾けるシーンが多く見られるようになりました。
フェンシングの判定はほとんどが主審によって行なわれるため、主審への心象のよさを維持すると同時に、「正々堂々と勝てる技術を持っている」という自信の表われでもあるのではないかと見ています。
フェンシングの各プレーは、双方の選手が「en garde(アンガルド)」と呼ばれる構えの姿勢をとってから、主審の「用意はいいか?」を意味する「prêt(プレ)」と、「はじめ!」を意味する「allez(アレ)」の発声によって開始されます。
この時に江村選手は、相手の選手よりも後に構えることがほとんどで、それが彼女の特徴のひとつとも言えます。おそらくこれは、一種の"ルーティン"のようなものだと思いますが、彼女は「審判の号令による受動的な構え」ではなく、「今から始まるプレーに対して能動的に構える」ということをとても大切にしているのでしょう。多くの選択肢の中から戦術を決定しなければならない攻防に備え、この瞬間にメンタルを切り替えているのではないかと思います。
【相手を仕留める迷いなき攻撃と、繊細な準備動作】江村選手のプレースタイルは韓国、フランス、そして日本と3カ国のメソッドから構築されています。
まずは2012年のロンドン五輪で、韓国に男子サーブル団体の金メダルをもたらし、同大会後に日本代表に赴任した韓国人コーチ、リー・ウッチェ氏の指導です。
厳しいチーム統率と、途方もない反復練習が同氏の指導の特徴です。身長やフィジカルといったヨーロッパ勢に劣る部分を埋めるために、フットワーク(足運び)の技術のトレーニングに力を入れるようになりました。その技術の習得にはフィジカルトレーニングも非常に重要で、選手たちの身体は日に日に大きくなっていったように感じましたし、この頃から、相手を追い込んだ時に仕留めきるダイナミックな攻撃が日本選手の強みとなりました。
続いては、2021年の東京五輪後にフランスからやってきたジェローム・グース氏。私が現役を退いたタイミングだったため、具体的な練習の状況などは把握できてしいませんが、「プレパレーション」と呼ばれる攻撃に入る前の準備動作に変化があったと感じています。
この動作は、相手との間合いや、相手の次の行動などの"情報"を引き出すためにとても重要です。もともとの江村選手の持ち味だったダイナミックな攻撃に、繊細さと柔らかさが加わったことで、世界トップを走るプレースタイルに到達したのではないかと私は考えています。
そして最後は、日本のコーチ陣です。これまでにも多くの選手たちが「サーブルでもオリンピックのメダルを!」と高みを目指してきたものの、残念ながらその夢を叶えることはできませんでした。ですが外国人コーチを招聘し、他国の優れた技術を学ぶようになった近年は競技力も飛躍的に向上して、目標が現実になろうとしています。
選手が好結果を出すには、国内のサーブルを支え続けてきた日本人コーチたちの存在が不可欠です。複数のメソッドを理解し、個々の能力に合わせて消化していく課程は非常に複雑なため、日々の細かいコンディショニングが求められます。さらに、文化や環境などを理解した日本人コーチが外国人コーチと円滑なコミュニケーションを図ることで、選手たちのよりよいパフォーマンスを引き出すこともできる。
現在、指導にあたっているコーチ陣の胸の中には、かつて同競技で世界を目指した過去の自分と重ね、「代わりに夢を叶えてほしい」という熱い気持ちがあると感じます。その思いが報われる瞬間を楽しみにしています。
【注目度が高まることでのプレッシャーの影響は?】7月26日の開会式では旗手の大役を見事に務めあげ、世界選手権2連覇を達成するなど輝かしい活躍を見せた江村選手の認知度は高まってきています。そのなかで、プレッシャーの影響を心配される方もいらっしゃるのではないかと思います。
世界で結果を残せるようになると、人前に出たり、注目される場に呼ばれることが多くなります。私も最初の頃は、コメントなどを求められた時にうまく話せず、後になって「こんなことを言えばよかった」と後悔することもたくさんありました。
競技のパフォーマンスと同じで、数をこなすうちに少しずつ慣れていきます。やがて客観的な視野を持てるようになり、「この場で何を伝えるのが最適か」を考えながらアウトプットできるようになっていきました。
江村選手のインタビューやコメント、SNSでの発信を見ると、すでにいくつもの大舞台を経験している自信を感じますし、周囲から何を求められているのかを理解している印象があります。高まる注目度やその責任を感じながらも、それらをポジティブに捉え、自身の目標である金メダル獲得まで突き進んでくれることを期待しています。
【トーナメント表から見る個人戦の展望】7月25日にフェンシング競技のトーナメントが発表されました。近年の対戦成績と照らし合わせて、女子サーブル個人での注目カードを見ていきたいと思います。
まずは準々決勝で対戦する可能性がある、韓国のチョン・ハヨン選手です。過去の戦績を見ると、2022年12月の対戦では15−5で圧勝していますが、2023年12月に対戦した時は14−15で惜しくも敗れています。非常にパワフルなフットワークを特徴とする"韓国スタイル"に対して、どのようにゲームメイクをしていくのか。序盤から流れを引き寄せられれば、安定した展開になると予想しています。そして準々決勝を突破できれば、メダル獲得がほぼ現実のものとなるでしょう。
次の準決勝は、江村選手が直近の対戦で敗れている、東京五輪の同種目の銅メダリストであるマノン・ブリュネ選手(フランス)、同国のシリア・バーダー選手、過去に僅差で勝利を収めているユン・ジス選手(韓国)らの勝者と剣を交えそうです。
準決勝ともなると競技力は拮抗しているため勝敗の予想は難しいですね。試合までの準備、当日のコンディション、序盤の流れといった多くの要素のうち、少しでも上回った者が決勝に進むでしょう。またフランス勢との対戦は完全アウェーとなるため、開催国の応援パワーをどのようにコントロールするかが非常に楽しみでもあります
個人的な感覚からすると、「オリンピックで金メダルを獲得する」ではなく、「世界選手権3連覇を目指す」といったイメージで試合に臨むほうがいいのではないかとも思います。目標を実現可能なものに転換することが、江村選手の最高のパフォーマンスに直結するのではないかと。
通常のオリンピックでは4年間の準備期間がありますが、今回は3年間と非常に難しいコンディショニング調整が求められました。その結果が1日ですべて確定してしまうのがオリンピックです。
世界中の選手がオリンピック出場、メダル獲得を目指してトレーニングに励んでいます。そのチャンスを掴んだ江村選手のパフォーマンスに期待するとともに、アスリートにとって最高の夢の時間を全力で楽しんでほしいと思います。
【Profile】
宇山賢(うやま•さとる)
1991年12月10日生まれ、香川県出身。元フェンシング選手。2021年の東京五輪に出場し、男子エペ団体において日本フェンシング史上初の金メダルを獲得。同年10月に現役を引退。2022年4月に株式会社Es.relierを設立。また、筑波大学大学院の人間総合科学学術院人間総合科学研究群 スポーツウエルネス学学位プログラム(博士前期課程)に在学中。スマートフェンシング協会理事。スポーツキャリアサポートコンソーシアム•アスリートキャリアコーディネーター認定者。