アラン・ドロン(1970年代)

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犬や猫、自然に囲まれた幸せな生活

 現在は家族に見守られながら療養生活を送るフランス人俳優のアラン・ドロン(88)。その彼は昨夏まで日本人女性・ヒロミさんと事実婚状態にあったが、現在彼女はドロンの子どもたちから訴えられる事態に……。何が起こっているのかをヒロミさんが初めて日本のメディアに語った。【前中後編の後編】

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 中編「『“一晩だけ”で終わるつもりが…』 アラン・ドロンと事実婚状態だったヒロミさんが明かす、ロマンチック過ぎる出会い」では、映画業界で活躍し始めたヒロミさんの、ドロンとの出会いや情熱的なアプローチについて語った。

アラン・ドロン(1970年代)

 紆余曲折を経て、ドロンと事実婚状態になったヒロミさん。こうして17年間に及ぶ、ヒロミさんとドロンのドゥシーでの生活が始まった。二人が暮らした居宅はドロンが36歳の時に購入したものだ。古くからドロンを知る人物が振り返る。

「あの地に城が建てられたのは200年以上も前で、アランが手に入れた当時はそのままでは住むことができないほど荒れていた。そこで彼は、城を取り壊して跡地を大きな池に変えたのです。住居は厩舎だった建物を、田舎風の2階建て住居に改造したものですよ」

 ドゥシーでの生活を、ヒロミさんは懐かしそうに述懐する。

「大きな池の周りを犬や猫たちと散策したり、二人で“月がキレイだね”とか“星の輝きが美しい”などと言葉を交わしながら庭の景色をのんびり眺めたり。あの時は心の底から幸せを感じたものです。アランは仕事でドゥシーを離れても、できるだけ早く帰るようにしていた。外国に出かけても一番早く帰国できる便を希望していたほど。その間、私はドゥシーでひたすら彼の帰りを待ち続ける。ちょっと古めかしい、日本的なカップルだったかもしれません」

嫉妬深いドロンの素顔

 普段のドロンは「とても嫉妬深いのよ」と、ヒロミさんは茶目っ気たっぷりに振り返る。

「アランは私が他の男性と連絡を取るのをとても嫌がりました。仕事を辞めさせたのは、ドゥシーで私を独占したかったからじゃないかと思うくらい。私が一人で外出するのも、決して良い顔はしませんでした」

 犬と猫、そして二人だけの日々。ヒロミさんはドロンを支え続けた。

「最初は料理が苦手でしたが、自宅でのアランは手作りの料理しか口にしないので頑張って作り続けました。冷凍食品や缶詰なんかもってのほか。けれど、私たちは食の好みが完全にマッチしていましたから、私が食べたい料理や、彼が好きな舌平目のムニエルを作ると喜んでくれて。“今夜は何を食べるの?”と、毎日のようにうれしげな顔で尋ねてくるんです」

 ただし、家事でも掃除は例外で、

「毎日、家政婦さんが来てくれました。ほかに使用人が2人、日本では考えられないほど広い敷地の手入れをしてくれていました。それから、仕事の際はアランに運転手兼ボディガードが同行していました」

突如破られた平穏

 平穏が破られたのは昨年の夏。詳細の前に改めて整理すると、ドロンには3人の子どもがいる。長男・アントニー、長女・アヌーシュカ、次男・アラン=ファビアンである。

 昨年7月5日、三人は連名でヒロミさんをドロンに対する「モラル・ハラスメント」、「信書の窃取」などの容疑で刑事告訴し、そのうえでドゥシーから追い出した。驚くべきことには、この告訴に当のドロンも加わっていたのである。告訴の理由は、ドロン家の代理人を務める、クリストフ・アイエラ弁護士がメディアに発表した声明文から読み取れる。

〈ヒロミは策略や脅迫を用いて、アラン・ドロンを親戚や友人、家族から孤立させ続けた。彼女はドロンの電話での会話や個人的なメッセージを常に監視している。時にはドロンの代わりにそれらに応答し、彼のふりをして郵便物を横取りすることもあった。ヒロミは子どもたちが、これまでのように定期的に父親に会いに来ることを妨げている。彼女は専横的で、脅迫的な態度で、さらにドロン氏の飼い犬を決して容認できない方法で虐待している〉

 しかも同じ日、アントニーは追い打ちをかけるように、単独でヒロミさんを「脆弱者(ドロン)への暴力と監禁」「脆弱さの濫用」「モラル・ハラスメント」「父の愛犬への暴力」で刑事告訴した。

家から出て行けという要求

 これらが事実なら、ヒロミさんへの批判は仕方あるまい。ところが、地元紙記者の見方は大きく異なる。

「アントニーの声明には〈2023年6月27日、父自身がヒロミ・ロラン氏にドゥシーの家から退去するように書面で求めた〉とある。彼は“自分こそが父親の後継者”との自負が強く、以前からヒロミとは折り合いが悪かった。不仲のきっかけは5年前にドロンが病気で倒れたことで、以来、両者の関係は冷え込んでいったとみられている」

 ヒロミさんが後を引き取って言う。

「アントニーが声明で指摘した昨年の6月27日、私とアランは定期健診のためにスイスの病院を訪れていました。そこでアランが私に家から出ていけと言うと思いますか? アントニーをはじめ、子どもたちの主張はすべて作り話で、何の根拠もないことは明らかです」

発作を起こし入院することに

 ヒロミさんと子どもたちの関係が悪化したきっかけは、ドロンの健康問題にあるとされる。19年6月14日、アラン・ドロンは脳卒中で倒れた。すぐさま大手紙「ル・パリジャン」がスクープ記事〈アラン・ドロンが短期入院〉を配信し、その事実は世界が知るところとなった。

 当時をヒロミさんが回想する。

「倒れる3日前、アランは朝から具合が悪い様子でした。“目めまいがする”と言いながらも、普段通り仕事に出かけて行きました。パリに着いてからも体調はすぐれなかったようで、14日の朝、パリ西方の郊外にある総合病院のパリ・アメリカン・ホスピタルを受診しました。そこでアランは脳血管障害の発作を起こしたんです。幸い病院の中だったので、そのまま入院することになりました」

 この日は金曜日。ドゥシーでドロンの帰りを待っていたヒロミさんのもとに知らせが届いたのは、夕方近くになってからだったという。

「運転手兼ボディガードから電話が入り、アランが脳卒中で倒れ、そのまま入院することになったと教えてくれました。“心配しなくていい。彼は大丈夫だ”とも。割と落ち着いた声でしたが、私は翌朝すぐに車で病院に向かいました」

“パパが死ぬかもしれない”

 病室に入ると、ドロンはベッドに横たわっていた。

「普段は見ることのない弱々しい様子でした。ただ、普通に会話はできたし食事も取れていた。ひとまずホッと胸をなで下ろしました」

 体調が安定してくると、ドロンはスイスのクリニックへリハビリのために移ることになった。

「ところが転院を目前に控えて容態が急変したのです。7月11日にパリ市内のピティエ・サルペトリエール病院に救急搬送されました。私はすぐ病院に駆け付けたのですが、運転手兼ボディガードから“一日中検査で面会禁止だから誰も会えない。このままドゥシーに帰って下さい”と追い返されました。後で分かったことですが、この日、病院にはアランの3人の子どものほかに、元妻のナタリー、アヌーシュカの恋人(現在の夫)や、アラン=ファビアンのガールフレンドも集まっていました。私が一旦、ドゥシーに戻ると、夜の9時半頃にアヌーシュカから電話がかかってきました。早口で“パパは今から手術なの。死ぬかもしれない”と言うのです」

 前編「アラン・ドロンへの虐待で刑事告訴され自宅にも戻れず… 17年間事実婚状態のヒロミさんが日本メディアに初の告白」では、ヒロミさんがドロンの子どもたちに一方的に刑事告訴され、現在も元の生活に戻ることができない苦しい胸の内を明かした。

 さらに、中編「『“一晩だけ”で終わるつもりが…』 アラン・ドロンと事実婚状態だったヒロミさんが明かす、ロマンチック過ぎる出会い」では、映画業界で活躍し始めたヒロミさんが、ドロンとの出会いや情熱的なアプローチについて語っている。

アラン・ドロン
俳優。1935年、フランス・セーヌ県で映画館を営む父と薬剤師の母との間に生まれる。17歳で海軍に入隊し、第1次インドシナ戦争に従軍。除隊から2年後の1957年に映画「女が事件にからむ時」で銀幕デビュー。24歳の時に主演した「太陽がいっぱい」は、日本でも大ヒットを記録した。

「週刊新潮」2024年7月25日号 掲載