布袋寅泰『GUITARHYTHM Vll TOUR FINAL “Never Gonna Stop!”』

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 布袋派か、hide派かーー。アバンギャルドでニューウェイヴなカッティングギターとクラシカルでメタリックな速弾き。比べようのないまったく異なるプレイスタイルだが、どっちがうまいとかこっちのほうがすごいとか、両ファンは答えの出ない論争を繰り広げていたものである。1990年代初頭、人気を二分したギターヒーロー2人が手にしていたのは、フェルナンデスのギターだった。

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 オーセンティックなシェイプを踏襲しながらも細部に近未来を感じさせたオリジナルギター、布袋寅泰モデル“TE-HT”とhideモデル“MG-X”にそれぞれ施された、布袋のシンボルともいうべき幾何学格子模様とhideのサイケデリックなペイント。しかしながら多くの者が手にしたのは無地の廉価モデルだった。そんな真っ黒なギターにペンキやポスカでペイントしまくり、hideのサイケペイントを忠実に描けるか競い合ったものである。

 90年代のギター少年たちが憧れた日本を代表するギターメーカー、フェルナンデス(株式会社フェルナンデス)が2024年7月11日までに事業を停止、その後自己破産手続開始の申立を行う予定である旨を発表した。

 布袋やhideを筆頭に、BUCK-TICKの今井寿と星野英彦、D’ERLANGERのCIPHERとSEELA、DIE IN CRIESの室姫深とTAKASHI、L’Arc~en~Cielのken、Janne Da Arcのyouとka-yu、シドのShinji……といった、ヴィジュアル系シーンに大きく影響を与えたプレイヤーをはじめ、HOUND DOGの西山毅、ZIGGYの松尾宗仁と戸城憲夫、LÄ-PPISCHの杉本恭一、JUDY AND MARYのTAKUYAと恩田快人……など、多くのバンドのギタリスト、ベーシストのシグネチャーモデルが生まれた。プレイヤビリティはもちろんのこと、ボディシェイプやカラーリングなど、細部までこだわり抜かれたフェルナンデスの奇抜なギターを見れば、そのアーティストの姿が思い浮かぶといっても過言ではない。アーティストモデルのブームを引き起こしたパイオニア的存在、それがフェルナンデスだ。

■アーティストシグネチャーモデルブームのパイオニアとして

 フェルナンデスは1969年2月、前身となる斉藤楽器を設立。1972年10月に社名を「株式会社フェルナンデス」に変更した。70年代から80年代にかけては海外ブランドのコピーモデルを中心に製造、大きく分けてフェンダー系を「フェルナンデス」、ギブソン系に「BURNY(バーニー)」というブランドを用いていた。この時代の国産メーカーによるコピーモデルは後年“ジャパンビンテージ”としてマニアの間で人気を得るが、フェルナンデスは高級モデルにおいて、漆とよく似たカシュー塗料を使用するなど、他メーカーとは一線を画す存在感を放っていた。

 フェルナンデス初のアーティストモデルというべきものは1975年に発売された、当時キャロルの矢沢永吉のベース“FYB”、通称“琵琶ベース”である。矢沢本人が使用したのは1975年1月19日の両国日大講堂公演『ROCK'N ROLLOVER』から1975年4月13日、雨の日比谷野外音楽堂にて行われた『GOOD-BYE CAROL 解散コンサート』までの3カ月と、使用期間は短いが、その後はレギュラーモデルとしてラインナップされた。1981年をもって製造中止になるものの、1995年に“YB”として復活。hideが1996年に開催したツアー『PSYENCE A GO GO』でも琵琶ベースを使用するなど、人気が再燃した。そこから最後までカタログに掲載されるほど多くの人に愛され、長きにわたりフェルナンデスを代表したモデルになった。

 ギターは、ジャパメタブームを受けて1984年に“FERNANDES HEAVY METAL VERSION”と銘打って発売されたVシェイプモデル“BSV”が人気を博した。同モデルは44MAGNUMのギタリスト 広瀬“JIMMY”さとしが愛用したことで一気に火がつき、本人仕様の真っ白なボディにゴールドパーツのBSVは通称“JIMMY V”と呼ばれ、アーティストモデルブームの先駆けになった。そこからフェルナンデスはバンドブーム、そしてヴィジュアル系ブームとともに、一時代を築いていくのである。

■多くの人に愛された90年代の黄金期

 当時のフェルナンデス人気を象徴していたのは変則サイズで大判フルカラーのカタログだろう。高級輸入車メーカーのカタログを彷彿とさせる豪華仕様でその多くは100ページ以上に及んだ。美しいギターの写真に加えて撮り下ろしのアーティスト写真も素晴らしく、楽器を弾かないファンにも好評だった。これが無料なのだから、楽器店に並ぶと瞬く間になくなってしまったことは言うまでもない。

 特に、一般社団法人 全国楽器協会が開催する『楽器フェア』での出展ブースの豪華さは群を抜いていた。イベントではモニター契約アーティストのトークショーなどが行われ、入場整理券を手に入れるべく毎度長蛇の列が作られていたものである。

 アーティスト本人の要望をもとに開発されるシグネチャーモデルの存在は、ギター製作における技術躍進に大きく貢献した。その代表例はBUCK-TICKの今井寿モデルだろう。1989年12月の東京ドーム公演『バクチク現象』で登場したバイオリンモチーフの“BT-MM”、通称“マイマイ”のインパクトは凄まじかった。その中世ヨーロッパ的な独創的なデザインがもたらす気品と高貴さがヴィジュアル系ギタリストに広く受け入れられ、同モデルにインスパイアされたであろうシグネチャーモデルはメーカー問わず数多く存在している。そして、ヘッドとボディをネックの太さと同等のスタビライザーで繫いだ流線型シェイプの“STABILIZER”は、ギターデザインにおける大革命であった。そのほか、ギターシンセやテルミンをギターに内蔵するなど、当時としてはあまりにも斬新な発想で既成概念を打ち破った。

■世界中で愛されるZO-3とサスティナー

 フェルナンデスの技術と発想力、デザインセンスが結集した名器、アンプとスピーカーが内蔵されたエレクトリックギター“ZO-3”が発売になったのは、1990年3月のことである。当時の開発コンセプトは「花見で弾けるエレキギター」。国内生産としては、アンプとスピーカー内蔵ギター自体は1964年にテスコ(TEISCO)が“TRG-1”を発売しているのだが、ZO-3はその丸みのあるキュートで小型なシェイプとそれを表すキュートなネーミングセンスが人気を博し、さまざまな派生モデルやキャラクターコラボを展開。2018年時点でシリーズ累計35万頭以上の売上を記録し、「世界で一番売れたギター」とも称されている。海外での販売モデル名は「NOMAD」(ノマド)であるが、ZO-3の愛称は多くの国で知られている。

 ZO-3の1990年の初回ロット数は300頭だったというが、1991年には3万、1993年に10万頭販売を達成している。そのセールスヒットの裏にはテレビ効果があった。1990年の『第41回NHK紅白歌合戦』(NHK総合)で「おどるポンポコリン」を披露したB.B.クィーンズの“インチキおじさん”(当時は覆面ユニットであり、近藤房之助であることは伏せられていた)が手にしていたギターがZO-3だったのである。そして、忌野清志郎だ。口下手な彼はトーク番組であっても、テレビ出演の際にはZO-3をよく手にしていた。清志郎がきっかけでZO-3を知った、手にした現在の40~50代は数知れず。さらに、たけし軍団のグレート義太夫と柳ユーレイ(柳憂怜)も様々なバラエティ番組でZO-3を抱えていたし、1993年に放送されていた伝説のギター番組『寺内ヘンドリックス』(フジテレビ系)では、エド山口が「一億二千万総ギタリスト計画」と題し、ZO-3を片手に街へ繰り出したのである。

 また、そのサウンドのチープさを逆手に取り、あえてレコーディングでZO-3を使用するアーティストもいた。有名なところでは、当時Red Hot Chili Peppersのギタリストだったデイヴ・ナヴァロが弾く「Walkabout」(アルバム『One Hot Minute』収録/1995年)だ。「あえて電池切れかけ状態で弾いた」という、壊れかけのラジオのようなファズサウンドが同曲のギターソロでは聴くことができる。

 フェルナンデスで忘れてならないのは、弦振動を自由にコントロールするために開発された「サスティナー」だ。スイッチをオンにすれば電池の限り永続的な弦振動を得られるシステムである。1991年に布袋モデルと今井モデルにプロトタイプが搭載された。布袋の「FLY INTO YOUR DREAM」(『GUITARHYTHM II』収録/1991年)はサスティナーによって生み出されたと言っていい曲であるし、hideはX JAPAN「ART OF LIFE」(『ART OF LIFE』/1993年)においてYOSHIKIの要望によるバイオリンのようなロングトーンを再現するためにはサスティナーが不可欠だったと語っている。その後、サスティナーはロバート・フリップ(King Crimson)、エディ・ヴァン・ヘイレン(Van Halen)、スティーヴ・ヴァイ、ジ・エッジ(U2)など、世界中のギタリストに愛用されている。

 また、飛び道具エフェクトペダルの代名詞である、米・DigiTech社の「Whammy」(ワーミー)を世に知らしめたのもフェルナンデスの功績だろう。ピッチシフターのインターバルを、エクスプレッションペダルでリアルタイムにコントロールできるワーミーは、1989年の登場時にはその斬新すぎる機能ゆえに受け入れられない側面もあったのだが、1991年に日本で発売されると同時に布袋、今井、hideが愛用し、一気に広まったのである。BUCK-TICK「Ash-ra」(『COSMOS』収録/1996年)の怪しくトリッキーなフレーズはこのワーミーとサスティナーの合わせ技だ。当時DigiTech社の輸入代理店を務め、前衛的なギタリストを多くモニターとして抱えていたフェルナンデスだからこそのものだろう。

■ジャパニーズロックの発展とともにあったフェルナンデス

 アーティストシグネチャーモデルにとどまらず、布袋モデルの廉価版とも言うべき“TEJ”、テクニカル派に好まれた“FR”、初心者向けモデルといえば“FGZ”、ベースは“FRB”に“SWB”……といった幅広いラインナップがあった。家庭用のアンプやシールドケーブルにストラップ、弦、そしてポリッシュ類や工具などメンテナンス用品も充実していた。ギターやベースを始めるにあたって必要なものは、すべてフェルナンデスで完結できたのである。

 ジャパメタ、バンドブーム、ヴィジュアル系……こうして振り返ってみれば、ジャパニーズロックシーンはフェルナンデスとともにあったと言っても過言ではない。たとえ楽器を演奏しなくともロック好きであれば、多くの人がフェルナンデスのギターやベースのサウンドを聴き、目にしてきたに違いないはずだ。そして、それは偉大なプレーヤーが残した音源や映像を通じてこの先も受け継がれていくことだろう。

(文=冬将軍)