親がよかれと思って投げかけた言葉が子どもを傷つけてしまうこともあります(写真:PIXTA)

子どもが思春期にさしかかると、親と子のコミュニケーションでのすれ違いが顕著になることがあります。それどころか、うまくいくほうが不思議に思えるほど、子どもをめぐる不安の種は尽きないように思えることすらあります。そんな悩みを解決に導く助けになるのが、「親業」の考え方です。

本稿では、親と子がお互いを理解しあい、心地よい関係を築くための会話のヒントを、『「親業」のはじめかた―思春期の子と心が通じあう対話の技術』より一部抜粋・編集して紹介します。

思い込みで会話を進めない

最初に、あるお母さんと11歳の息子と親の会話を見てみましょう。
  
子 今日、学校でイヤなことがあった。
親 どうしたの?
子 ケンジにぶたれたんだ。
親 ケンカでもしたの?
子 僕は何もしていないのに、いきなりケンジがぶってきたんだ。
親 何もしないのにぶつはずはないでしょう。どうしてぶったのか、ケンジ君に聞いてみたらいいじゃないの。

子どもがいる家庭なら、どこの家でもありそうな会話です。「イヤなことがあった」という以上、子どもには親に聞いてもらいたい話があるのでしょう。親も関心をもって子どもの話を聞き、丁寧に対応しているように思えます。しかし、細かく見てみるとどうでしょう。

まず、子どもの言葉を受けて、親は「どうしたの?」と先をうながしています。子どもの話を聞こうという姿勢が表れています。「ケンジにぶたれた」に対しては、「ケンカでもしたの?」と、ぶたれた理由を親が憶測したうえで質問しています。そして「僕は何もしていないのにぶたれた」という主張に対しては、「何もしないのにぶつはずはないでしょう」という親の判断を口にしています。

そこには「ぶたれたのはケンカしたからだろう」「何もしないのにぶつはずはない」という、親の先入観や思い込みが感じられます。子どもの話を最後まで聞かず、途中でさえぎり、一方的な意味づけをしているのです。

子どもの訴えを封じてしまう可能性も

「何もしないのにぶつはずはない」という論理は一見、筋が通っているようにも思えます。しかし現実には「何もしないのにぶつ子」もいます。廊下ですれ違ったとたん、いきなりちょっかいを出してくる子もいます。子どもが「いじめ」を受け、親に訴えようとしている可能性も考えられます。

もしそうだとしたら、親の不用意なひとことが子どもの訴えを封じてしまうことにもなりかねません。子どもは「何を言ってもわかってもらえない」と感じます。話をすることでかえって親から責められる経験が重なると、親の前では本音を口にしなくなるかもしれません。

最後にこの親は「どうしてぶったのか、ケンジ君に聞いてみたらいい」と提案しています。子どもの問題に関して、親が解決策を提示しているのです。

もちろん親は子どものためを思って助言するのでしょう。子どもを愛しているから、助けてあげたいから、「こうすればいい」「ああするほうがいい」と指導したくなるのです。しかしそれは、子どもが自分で考え、自分で解決する機会を奪ってしまうことにつながります。

親の考える解決策が本当に最善なのかという疑問もあります。子どもをぶった相手がとんでもない乱暴者だった場合、面と向かって「どうしてぶったのか?」などと聞けるものでしょうか。もっとひどい目に遭う恐れもあります。子どもは親のアドバイスを実行できない自分を恥じ、「自分は弱虫だ」と感じ、ますます萎縮してしまうかもしれません。

「親には知恵がある」「親はつねに正しい」「最良の生き方を知っている」などと考えるのは危険な思い込みです。もちろん子どもが真実を語っていない場合もあります。「何もしていないのにぶたれた」というのは嘘で、実際には親が想像したとおり、その子が先に手を出していたのかもしれません。

子どもにもプライドや羞恥心がある

親が子どもの気持ちを知りたいと思って質問し、耳を傾けても、子どもがいつも本心を語るとはかぎりません。いじめを受けている子がなぜ親や教師に相談せず、ひとりで問題を抱えこみ、自分を追いつめてしまうのか、悲しいニュースを聞くたびに疑問を感じる人は多いでしょう。

しかし子どもにもプライドはあるし、羞恥心もあります。「親に弱みを見せたくない」、あるいは「心配をかけたくない」と考えることも多いのです。

親は子どもに向かってものを言いたい存在です。あれこれと子どもの生活に干渉し、子どものトラブルに介入してしまうのも、子どもの力になりたい、子どもを助けたい、子どもを正しい道に導きたいと思うからです。

ところが実際には、親の思いはなかなか子どもに伝わりません。それは、愛情の深さや子を思う気持ちの強弱ではなく、コミュニケーションの形に課題があるためです。

親子関係にかぎらず、コミュニケーションは言葉のやりとりで成り立つことがほとんどです。子どもが投げたボールを親が受け止める。親が投げ返した同じボールを、今度は子どもが受け止める。そんな言葉のキャッチボールです。

しかし時として、投げあっているうちにボールが入れ替わってしまうことがあります。子どもは白いボールを投げたのに、親は赤や黄色のボールを投げ返してしまう。「何もしないのにぶたれた」というボールに対して、「何もしないのにぶつはずないでしょう」といったボールを投げ返す場合です。

子どもの投げた白いボールはどこへ行ってしまったのでしょう。親から赤いボールが返ってきたら、その子は自分の思いをどこにぶつけられるのでしょう。

親が赤いボールを投げ返してしまうのは、子どもの発言や態度や行動をたしなめたり、助言したり、困りごとや悩みごとを解決してやりたいと思うからです。しかしそれでは、せっかく始まったキャッチボールがまったく違うものになってしまいます。

自分で考えて解決できる子になるために

子育ての究極の目的は、ある意味で、親がいなくても生きられる人間を育てることです。困難に直面したとき、自分の頭で考え、自分の判断にしたがって行動を起こせる人間。そして自分の行動に責任をもち、社会のなかで他者とともに生きていける人間を育てあげることです。


自立した人間に育つためには、子どもの頃から言葉のコミュニケーションを通して自分の思いを表現し、他者の気持ちを理解し、自分で考える訓練が必要です。意思決定したことに対して責任をとる体験も積んでいかなければなりません。

そこでは、いちばん身近な存在である親が、わが子に対して日常いかに接するかが大きな意味をもってきます。親子が互いに相手の気持ちを理解し、自分の気持ちをきちんと伝えあうことこそが、自立した人間への第一歩です。親が日常の接し方を通して子に体験させ、学ばせることができるのです。

(近藤 千恵 : 親業訓練協会顧問)
(親業訓練協会)