子どもながらに、自身の家を「中流より下」だと思っていたという男性。無理をして大学進学した結果、たどり着いた現在とは?(写真:mits/PIXTA)

これまでの奨学金に関する報道は、極端に悲劇的な事例が取り上げられがちだった。

たしかに返済を苦にして破産に至る人もいるが、お金という意味で言えば、「授業料の値上がり」「親側におしよせる、可処分所得の減少」「上がらない給料」など、ほかにもさまざまな要素が絡まっており、制度の是非を単体で論ずるのはなかなか難しい。また、「借りない」ことがつねに最適解とは言えず、奨学金によって人生を好転させた人も少なからず存在している。

そこで、本連載では「奨学金を借りたことで、価値観や生き方に起きた変化」という観点で、幅広い当事者に取材。さまざまなライフストーリーを通じ、高校生たちが今後の人生の参考にできるような、リアルな事例を積み重ねていく。

子どもながらに「中流より下」と思ってた

「僕は今年で61歳。最初の東京五輪が行われる前年の生まれです。当時は高度経済成長期で『1億総中流』という言葉がはやっていました。ただ『うちは中流よりは下だな』と、子どもながらに思っていましたね」

そう語るのは赤井隆弘さん(仮名・61歳)。北陸出身。2歳ずつ歳が離れた妹が2人いる


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現在は関西の国立大学で特任教授として働き、悠々自適に暮らしているが、幼少期はかなり苦労を経験したという。

「『練炭』もしくは『炭団(たどん)』をご存じでしょうか? 練炭は蓮の花のような形のもので、炭団は石炭をすり潰して成型して作る真っ黒い球体です。父親の実家でこれらを作っていましたが、お察しの通り、当時から使っている人はごくわずかで、斜陽産業となっていました。だから、『うちは中流よりは下だな』と思ったわけです。

あと、僕は小学5年生になるまで牛肉を食べたことがありませんでした。親からは『牛肉は赤身で脂がないから』と言われて育ったのですが、初めて食べたときは『いや、脂あるじゃん!』と思ってしまいましたね(笑)」

そして、生計を立てられなくなった赤井さんの父親は、隣県でアルミサッシの会社に入る。しかし、ここから赤井さんの父親だけではなく、家族全員が仕事に振り回されていく。

「セールスエンジニアとして新たな職場で働き始めた父ですが、サッシというのは注文が入ると本社からバラバラで運ばれて来ます。それを営業拠点で組み立てて現地に持って行き、設置するのがセールスエンジニアの仕事です。

父の入社当時は小さな町工場だったのが、次第にそこが手狭になったため、別の場所に移り、最終的に郊外の広めの土地に工場ができました。おかげで僕は小学校を6回も転校するハメになりました。今となっては笑い話ですが、『旅芸人の子どもですか?』と聞かれたこともあります」

ただ、6年間の間に6回も小学校が変わって、苦労したのは赤井さんだけではなかった。

中学2年生のときに両親が離婚

「仕事の都合とはいえ、引っ越しがここまで多くなると、夫婦仲は悪くなっていきます。最後の引っ越しで郊外に家を建てたのですが、僕が中学2年生のときに両親は離婚しました。まぁ、離婚の原因は父親の女癖の悪さもあったので、子どもたちは3人とも母に付いて行くことになりました」

こうして、母子家庭となった赤井さん。時代も時代のため、「高校を卒業したら働きなさい」と言われても不思議ではないが、県内有数の進学校に入学して、大学進学を目指す。

「母は昭和10年代生まれですが、国立大学の2年課程の『別科』を卒業しています。そのため、子どもの頃から『あんたは男だから学歴を付けないかん』とは、ずっと言われており、大学に行くことは既定路線でした。

そのため、母は女手ひとつで働きながら、僕を高校に通わせてくれましたが、それでも資金が足りなかったため、大学に行くためには奨学金が絶対条件だったのです」

赤井さんは小学生の頃は科学者を夢見ていた。そして、成長するにつれて、医者も目指すようになるが、金銭的な事情もあり、浪人生活は難しいと考え、薬学部を志望する。そして、「現役」でどこかに受かりたかったため、さまざまな大学を受けた。

「税務大学校、防衛大学校、地元と近隣県の国立大学、そして公立薬科大学の5校を受験しました。税務大学校と防衛大学校は不合格でしたが、それ以外の3校には無事合格しました。

それで、薬科大学に進みたかったのですが、入学手続きで同校の事務室を訪れた際に『奨学金とアルバイトで学費を賄う予定だ』と伝えたところ、『2年生まではなんとかなるけど、3〜4年生は実験が多いから無理だと思う』と言われてしまったため、その大学は諦めることにしました」

国立大学の理学部に入学し、奨学金を借りる

こうして、地元の国立大学の理学部に入学した赤井さん。本意ではなかったが、家から通えることは救いだった。

そして、当時の日本育英会(現・日本学生支援機構)から、毎月4万円奨学金を借りることになる。

「当時は通常奨学金と特別奨学金があって、通常は3万6000円で、特別が4万円でした。どちらも、返済するときは3万6000円でよく、4000円は返済免除されたのです。また、通常でも指定された研究機関、または教員になった場合は全額免除という制度でした。

今となっては、貧乏が理由だったのか、成績が優秀だったのかはわかりませんが、大学の学費も免除になりました。ただ、それだけでは理系の学部は教科書1冊買うにも2万円することもザラなので、日本育英会のほかに県と市の寡婦奨学金も借りていました」

すべて貸与型だが、毎月何万円も銀行口座に振り込まれる経験はなかったため、純粋にうれしかったそうだ(寡婦奨学金だけは母親の元へ振り込まれていた)。

そのため、勉強にも精を出しながら、写真部とテニスサークルにも所属。そして、アルバイトは大学の斡旋窓口で斡旋された零細工場のねじ切りから始まり、皿洗い、遺跡の発掘、土木工事、塾講師、家庭教師とさまざまな仕事を経験した。

そして、卒業後は医療用医薬品を開発・製造・販売する会社の研究所に就職する。

「80年代の理系学生の就職というのは、卒業生や企業の人事(リクルーター)がスカウトに来るのです。そこで、僕は『研究員をやりたい』という話を、OBにしたところ『それだったら、製薬会社がいいよ。特に化粧品と比べたら使える額が1桁違う』と言われたため、教授に推薦状を出してもらって、志望することにしたんです。

ただ、教授には嫌がられましたね。というのも、僕を大学院に進学させたかったからです。ただ、経済的にそれは難しかったので、就職することにしました」

就職から半年後。4年間で借りた500万円近くの奨学金を20年かけて返済する生活が始まる。

「県の奨学金の返済は社会人になって1年後に始まりました。市の寡婦奨学金は母が返済していたため、具体的な額はわかりませんが、毎月2つの奨学金を1万2000円返していました。そんなに、額は大きくないですが、ある年にお歳暮の時期に社販で購入したところ、それが給料からの天引きだったため、手取りが2万4000円とかになってしまったことがありました。

当時は会社の寮に住んでいたため、平日は食事に困ることはありませんでしたが、休日は寮で食事が出ないので、外食せざるをえなく、しかも現金がないのでクレジットカードで支払いが可能なファミリーレストランに行くことしかできませんでした」

まるで、イマドキの若者のような生活だが、赤井さんが社会人としてバリバリ働いていた当時は、今ほどクレカが使える店も少なかったため、苦労しただろう(おまけに、研究所があるのは田舎だ)。

それでも、社会人と返済生活を続けた赤井さん。その間に結婚もして、子どもも2人生まれたが、12年目に別の製薬会社に転職する。

「時代的にバブルが弾けてリストラが始まったのです。当初は研究所から営業に回されるような社員がリストラの対象だったため、『しょうがないかな』と思っていました。しかし、次第に入社2年目の社員までも対象になっていたため、『これはいかんな』と思い、会社を離れることにしたのです」

2年目からは収入がうなぎのぼり

外資系の大手製薬会社に転職した赤井さん。科学者としてさまざまな薬をネズミやサルに投与していたそうだ。

まるで、絵に描いたような「サイエンティスト(科学者)」だが、給料は据え置きだったという。

「転職して1年目は給料が上がるどころか、下がってしまい、妻に心配されました。でも、2年目からは本当にうなぎのぼりで上がっていきました。というのも、月々の給与は変わらないのですが、年に3回のボーナスが査定によって、20カ月分もらえることもあるんです。面白いですよね。

もちろん、その逆もしかりでボーナス月なのにまったく支払われない人もいました。だから、人間関係ギスギスしていましたが、それに耐えられる人にとってはいい職場だと思います」

転職して3年目にはボーナスでポルシェを買えるほど、裕福になった赤井さん。奨学金の返済もしばらくは続いたが、7年が経つ頃には完済。

42歳にして20年間の奨学金返済のしがらみから抜け出せたはずだが、人生は思い通りにはうまくいかない。

「ようやく、裕福になれたと思ったら、研究所が閉鎖されて、職員が全員クビになってしまいました。さすが、外資ですね……。慌てて部下たちの次の職場を確保したのち、僕も国内大手の製薬会社に雇ってもらえました。そこから、11年勤務していたのですが、またリストラ騒ぎが起きてしまいます。そのとき、僕は部長だったのですが、リストラ候補の社員たちと面談を行う必要があり、それがつらくて……。

言っても国内大手の製薬会社のため、給料は外資と比べれば高くはないのですが、安定はしているため、常々部下たちには『そこは目をつぶってくれよ』と言っていました。しかし、それが崩れてしまったため、もはや合わせる顔もなく……。心が折れてしまい、リストラする側の私が会社を辞めたのでした」

50代にして職を失ってしまうのも、かなりハードな事態だが、それでもこれまでの実績がある。冒頭で紹介したように、赤井さんは56歳でサラリーマン生活を終え、特任教授にジョブチェンジを果たすことができた。

「会社を辞める前に上司から『とある国立大学で特任教授の公募があるけど受けてみたら?』と紹介されて、履歴書を送って面接を受けたところ、今の職場にたどり着きました」

改めて説明すると、特任教授とは大学に一定期間の任期つきで雇用された教員のことを指す。専門性の高い分野で実務家として働いてきた者が、大学教員へと招聘された際にこう呼ばれる。

「大学の教員は公募のため、インターネットに採用情報が掲載されています。常任の教授職の場合は、教授会の投票で採用が決まりますが、特任教授はトップの学部長や大学院研究科長、もしくは病院長の判断ですんなりと決まることもあるのです」

経歴が生かせるセカンドキャリア

こうして、現在は関西の国立大学で「プロジェクトマネージャー」として、週に1回の講義と研究者と医者たちの研究成果を、薬や医療機器にするための支援を仕事にしている。赤井さんのこれまでの経歴が、十分に生かせるようなセカンドキャリアだろう。

「『これまでの僕の経験が少しでも役に立つのであれば!』という思いで、今は働いています。給料は半分以下になりましたが、それでも年収1000万はいただいているため、この額をもらえれば老後も安心して生活できますよね」

ちなみに、今回はZoom取材だったのだが、赤井さんは自身の別荘から応じてくれた。奨学金の返済で苦労していた時期があるとはいえ、いったいこれまでどれだけ稼いできたのだろうか……?

最大の目標も達成できて、今はとても幸せ


「外資をクビになる前の年で、1500万円はもらっていました。国内大手の製薬会社で同額に戻るには8年はかかります。その後、製薬会社を辞めるときは役員手当も付いていたため、年収は2000万円でした」

まるで、冒頭の牛肉のくだりは嘘だったかのように、大成功を収めた赤井さん。自身の努力の賜物としか言いようがないが、これも奨学金を借りて大学まで行ったおかげだと実感しているという。

「子どもの頃からは想像もできなかった暮らしですよね。『科学者になりたい』という小学生の頃の夢もかないました。なによりも『子どもたちに僕が経験してきたような、貧しい思いをさせたくない』という最大の目標も達成できたので、今はとても幸せです。

よくネットでは『奨学金で莫大な借金を背負って不幸になった』という記事を見かけますが、『そればかりではないんだよ!』と言いたくなります。僕のように『なんとかなった例』もあるので、こうした話がもっと広がるといいですね」

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(千駄木 雄大 : 編集者/ライター)