漆塗りの職人として活躍するK.Rさん(写真:K.Rさん提供)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は、神奈川県立横須賀高等学校から4浪をして立命館大学に進学し、銘木屋、家具屋での勤務を経て、現在は漆塗りの職人として活動しているK.Rさん(仮名)にお話を伺いました。

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浪人してよかったことが浮かばない


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今回、お話を伺ったK.Rさん(仮名)は、4浪をして立命館大学に進学し、現在は漆塗りの職人として活躍されています。

本連載では「浪人して人生がよくなった」と言う人が多い中で、彼は自身の浪人生活を決して肯定的には捉えていません。

4年間甘え続けていたツケを感じる」「浪人してよかったことはあまり思い浮かばない」と語るK.Rさんは、浪人したことを後悔しているようでした。

その一方で、浪人の経験に負い目はあるものの、「無駄な経験ではなかった」とも語ってくれました。

4年にわたる浪人経験をお伺いしながら、彼が考える浪人の功罪に迫っていきます。

K.Rさんは神奈川県逗子市に生まれました。父親は商船系大学を出て船乗りとして働き、母親は地方の名門校を出てテレビ局に勤めていました。

「生まれてしばらくは逗子市の借家に住んでいたのですが、1歳ごろに父方の両親が住んでいた葉山町の家に移りました。周囲には教育熱心な家庭が多かったためか、私も2年生から3年生まで日能研ジュニアの通信教育で学び、4年生になってからは中学受験のために、本格的に塾に通って勉強をしていました。住んでいた地域から同じ塾に通っていた人が何人かいたので、部活のような感じで楽しんで行っていましたね」

「勉強を強要されたわけでも、自分で特別頑張ったわけでもない」とのことですが、5年生くらいのときには偏差値が70以上あり、全国規模の模試で10番以内に入って、表紙に載ったこともあったそうです。

しかし、6年生で成績が少し下がってしまい、第1志望の栄光学園含め、麻布、浅野、聖光学院と受験した4校すべて落ちてしまいました。

「大人になってから考えてみると、私は周囲の子ども以上に子どもだったから、一般常識・社会常識が欠けていたのだと思います。甘やかされて育った、自分の意見を言えない子どもでした」

こうして公立中学校に進学したK.Rさん。受験での失敗が大きな挫折となったのかと思いきや、自分で考えて行動していないためか、悔しく感じたことはなかったそうです。

一方で小学校のときに、すでに中学レベルの勉強もしていたため、中学に入ったときの成績は100人いる学年の中でも1〜2番でした。

当時の勉強は惰性だった」とK.Rさんは語りますが、中学での勉強には「あまり苦労を感じたことはない」と話すだけあって、卒業する頃にはやや成績が落ちたものの、上位8番くらいでとどまりました。

高校受験では進学校である県立横須賀高等学校に合格し、進学します。しかし、ここから彼の成績はみるみる下がり始めます。

部活動に打ち込み勉強をしない日々

県立横須賀高等学校に進んだK.Rさんは、中学時代に所属していたブラスバンド部とは打って変わり、ラグビー部に入って部活に打ち込みます。その日々を振り返って彼は「当時は全然勉強しなかった」と語ります。


勉強せずにクラスの人の似顔絵ばかりを書いていたと語るK.Rさん(写真:K.Rさん提供)

「成績はずっと下のほうで、クラスの一番下から2〜3番目という感じでした。地理と保健だけは得意で学年トップだったのですが、好きな科目しか勉強しなかったんです。最高学年までやりたいことも志望校も決まらないまま、センター試験を受けました。

点数は全然思い出せないのですが、低かったので、国立の医学部で唯一二段階選抜がなかった宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)を受けて落ちたことしか覚えていません。

親の希望もあって小学校からずっと医学部志望でした。受かるわけがないと思っていたのですが、何となく受験の世界に乗っかっている雰囲気を出すためだけに宮崎まで行ったんです。交通費も、宿代もかかるのに……。今考えても本当にひどい人間ですよ」

こうして現役の受験をあっけなく終えたK.Rさんでしたが、落ちる前からもう浪人すること自体は当然だと思っていたそうです。その理由としては、「大学に行くというのが当然の環境にいたため」と語ってくれました。

「志望校もなかったですし、浪人すれば何とかなるとすら思っていません。ただ、うちの学校は大学進学率が99%くらいでした。大学に行かないという人がほぼいない環境だったので、浪人以外の選択肢は自分の中になかったんです」

こうして、代々木ゼミナール横浜校に入って浪人をスタートしたK.Rさん。ところが、しばらくすると、予備校にまともに行くことすらしなくなったそうです。

「親から予備校代の現金70万円を預かって、手持ちで代ゼミに持っていったときは心が痛みました。

かといって、それに報いる勉強をしたかと言われると何もしていません。午後になると、好きな地理の先生の授業を受けるためだけに塾にぷらっと行ったり、町田校の地理の授業だけもぐりに行ったりしていました。

模試の成績は、地理以外は偏差値40〜50くらいだったと思います。国公立理系コースを選択していたのですが、英語と数学・物理はひどかったですね。センター試験の結果も覚えていません。それくらいのレベルだったんです」

この年は結局、前期も後期も横浜国立大学を受けてどちらも落ち、2浪が確定します。

3浪目は同級生が家庭教師に

2浪に突入したK.Rさんは、お金をたくさん払ってもらったのにほとんど予備校に通わなかったことから、自宅浪人を決断します。しかし、この年は前年よりさらにだらけてしまいました。

「空いた時間、ずっと勉強する意欲も目的も何もなかったので本屋で立ち読みしていました。

実は高校時代にいちばん仲がよかったラグビー部の親友も2浪していたのですが、彼はラグビーをするために早稲田か明治に行きたくて2浪していたので、私も途中から早稲田や学習院の文系を目指して、ちょっとだけ勉強をし始めました。(早稲田や学習院の辺りの)都電の空気が好きだったという不純な動機でしたね。

それでも1日数分くらいしか勉強してないので成績は変わりませんでした。この年は早稲田4つと、学習院・明治・成城・日大などを合わせて10学部くらい受けたのですが、全落ちでした。この年はもう浪人じゃなくて、ただのプータローです

こうして3浪に突入したK.Rさん。この年も早稲田を目指して宅浪をします。

見かねた母親は高校の同級生でもある幼馴染を家庭教師として見つけてきました。さすがに危機感が欠けていたK.Rさんにとっても、これは屈辱を通り越して、笑ってしまったようです。

「この年から同級生に勉強を見てもらい始めたのです。家庭教師は1回2時間だったのですが、ギターがうまいやつだったのでギターを教えてもらう時間のほうを楽しんでいました。そんなに必死にはやってなかったので、成績もなかなか上がらず、模試の判定はE〜Dでした」

それでも前年よりは勉強していたこともあり、早稲田大学も学部によっては合格するかもしれないという感触はつかんでいたそうです。

この年は早稲田の政経・商・教育と、学習院を5学部受験したK.Rさんですが、この中でも早稲田大学の教育学部国語国文学科は、過去問と国語の配点の高さ(※国語の得点が1.5倍換算)を見て、唯一チャンスがありそうだと感じていました。

「『マドンナ古文』で勉強した古文と、地理で点数を稼いで、英語を切り抜ければなんとかなるかなと思い、そこに懸けました。手応えもあったのですが、ギリギリ落ちてしまって……自己採点をしたら、ボーダーに0.5点届きませんでした。でも、その0.5点の間に何百人、何千人もいると思ったので、大して勉強していない自分が落ちたのもある意味当然かなと思いました」

しかし、この不合格にも悔しさは感じなかったそうです。

「もしかしたら、(来年は)いけるかもと思いました」

4浪目の勉強時間は減ってしまった

4浪も宅浪を決断したK.Rさんは、生活リズムを取り戻すために3浪の途中から始めたマクドナルドでのアルバイトを続けながら、勉強を続けます。

ただ、この年はまた1日の勉強時間が2浪目と同じくらいに減ってしまったそうです。

「基本的には早稲田を目指していましたが、最終的にはどこでもいいやという感じで、自分の適性的に行けそうなところを探しました。

試験の1カ月半前から、石井雅勇先生のセンター英語の参考書をひたすらやっただけです。この年の受験は、立命館のセンター利用で産業社会学部、A方式で経済学部に出してどちらも受かりました。早稲田も受けたはずなのですが、立命館に受かったのが嬉しかったからか、もうどこの学部を受けたのかも覚えていません」

こうして「真面目に勉強したのは4年目の最後の1カ月半だけです」と語るK.Rさんの4年の浪人生活は終わり、立命館大学の産業社会学部に進学が決まりました。

立命館に入ったあとのK.Rさんは陶芸部に入ったり、地理が好きだったため地理学の授業を取ったり、3回生で入ったまちづくりのゼミを受けるなどして学びを深めます。その過程で彼は京都の古い街並みに興味を持ち、家賃6万円の物件から家賃2万2000円の古い長屋に引っ越しました。

一方で就活をせずに卒業し、卒業後に慌てて就活をした結果、幅広く木材を加工、販売する銘木屋で働き始めました。

大学入学後、町家関係の仕事に興味抱く

「大学のときはなんとなく町家関係の仕事に就きたいと思っていましたが、建築の知識がないのでそういうところに入るのは難しいと思い、卒業する直前まで何も動きませんでした。

それでも卒業式の次の日には仕事を探さないといけないなと思って、自分の足で探しに行ったら、銘木屋を紹介してもらいました。話を聞きに行って、なぜかもうその日から働き始めていました。そこでしばらく木工の仕事をやってから、家具屋に転職しました。

その傍ら京都で木を扱っている仲間たちとスプーン教室などのワークショップを開き、一緒に活動することが増えました。その仲間たちは京都という土地柄、家具でも漆を使っている人が多く、彼らと話す中で、漆というものの魅力に惹かれ、漆を家具や内装、インテリアにも取り入れていけたら面白いのではないかと思ったのが、漆の世界に入ろうとした大きなきっかけです」

こうして家具屋での4年間の勤務を経て、無給で毎日カレーを食べる生活をしながら、漆の工房で2年間修行した後、工藝の会社に就職し漆塗りの職人として活躍しているK.Rさん。

彼は4年間の浪人生活を送りましたが、48歳になった今、浪人の経験を決して肯定的には捉えていないようです。「4年間甘え続けていたツケを感じている」と語る彼は、浪人してよかったことについて「見いだせる部分がなかなか出てこない」と語ってくれました。

「2年修行した後に最初は工房を自分で開こうと思っていました。ただ、自分のセンスを感じなくて、それで食べていくところまで持っていける体力と財力がありませんでした。

それでも漆は特殊な技術で、それを生かしたいという思いがあったので工藝の仕事を探して、今に至るまで15年以上、ずっと工藝の会社に勤めながら生活を続けています。

この世界に遅くから飛び込んだのもあって、いろんな決断をするうえで『もうあと4年早く今の仕事に就いていればよかったな』と感じることが最近、多くなりました。

4年くらいすぐに取り戻すつもりで努力はしてきたつもりなのですが、現状取り戻せていないと感じるのは、後悔の念をいまだに引きずっていて、前向きになれていないからだと思います」

今の家族がいるのは4年間の苦労のおかげ

「2浪で早稲田に入ったラグビー部の親友と最近もたまに会うのですが、彼は子どもたちに『1〜2年は遠回りしても全然遠回りではない』と言っているそうです。彼がそう言えるのも、1〜2年の間しっかり受験勉強したことで、今の自分の立場を得て、ある程度満足した生活を得られているという自負があるからだと思います。

でも私はしっかり勉強したという自負がないから、(子どもたちに)そうは言えません。若いほうが吸収が早く、経験を積むことがいちばん重要な仕事をする中で、私はダラダラしていた4年間のせいで、取り残されていると感じています

ただ、今の仕事を通じて妻とも出会い、中1と小4の2人の子どもの父親でもあるK.Rさんは「今の家族がいるのはその4年のおかげだと思っている」と少しでも浪人を前向きに捉えるように、日々の生活を頑張っているそうです。

私生活では、4年ほど前にブラジル発祥のビーチスポーツであるフレスコボールにはまった彼は、クラブチームを立ち上げ、現在同競技のプレイヤーとしても活躍しています。


フレスコボールを楽しむK.Rさん(写真:K.Rさん提供)

浪人の4年がなかったら今の自分ではまったくないし、家族もいません。その4年があったからこそ、今があると思えるので無駄な経験ではなかったと思います。

このスポーツは1対1(もしくは1対2)で向かい合ってペアで行うラケット競技なのですが、ペアの2人が協力していかにうまく速く強くラリーを続けられるかを、ほかのペアとポイントで競います。敵を打ち負かすのではなく、敵は己にあります。どれだけ練習を積んで自己を高めていくか、相手と呼吸を合わせていけるかの積み重ねです」

生涯浪人だと感じている

「相手との関係性を大切にし築き上げていく、それはまるで人生の縮図のようでもあります。近ごろ、仕事などをしていくうえでも、人との付き合い方において、今の時代の流れに合わせなければならない状況は多々あると感じますが、持っていたい、曲げたくない信念はずっとあります。

スマホによって人間関係が希薄になってきている世の中だからこそ、人と人との関係性を大事にし、人と人とのつながりがいろんなことを生み出す空間を創っていきたいと願っています。自分の思い描く場所にたどり着くにはまだまだ道のりは長く、ずっと追い求めているかもしれません。そういった意味でも今も浪人、生涯浪人。そんな気がします

今の自分の境遇には決して納得していないものの、変わるための努力を重ねているK.Rさん。その前向きさや利他精神は、間違いなく、浪人の4年が培ったものなのだと思いました。

K.Rさんの浪人生活の教訓:たとえ後悔していることでも、人生において無駄にはなっていない

(濱井 正吾 : 教育系ライター)